なせばなる!鷹山公の歴史

更新日:2025年06月16日

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ここでは、一般的な上杉鷹山公の歴史ではなく、米沢市民だからこそ知りえるちょっと楽しい歴史を掲載しています。

米沢藩の救世主

上杉鷹山の像

上杉治憲(鷹山)公が藩主となったのは若干17歳の明和4年(1767)、この時すでに米沢藩は崩壊寸前の危機的状況にありました。上杉家は、豊臣秀吉から移封を命じられ会津米沢120万石で栄華を極めていましたが、関ヶ原合戦で西軍につき敗北したことで米沢30万石に減封され、その後3代藩主が世継ぎを決めないまま急逝したことの責任により15万石となりました。120万石時代の家臣団約6,000名を召し抱え、派手な交際など大大名時代の統治が原因となり、治憲(鷹山)公が藩主となる頃には推定20万両(現代の価値で約200億円)の借財があったとされています。

しかし、治憲(鷹山)公は、江戸藩邸での師匠細井平洲から学んだ「君主たるものは民の父母でならねばならぬ」という「民の父母」の精神により大胆な藩政改革を進めていくことになります。

鷹山公の最も有名な「なせば成る」

なせばなるの石碑

「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬ人の成さぬ成けり」は、鷹山公が隠居所である餐霞館に移った際に、その当時嗣子であった顕孝に仕える家臣に心得として示した壁書に書かれていたものです。

鷹山公の「鷹山」の由来は白鷹山・・・は、創作??

鷹山公の「鷹山」は、白鷹町にある白鷹山にゆかりがあると言う説がありますが、実はこれは創作です。平成7年に行われた舞台「上杉鷹山」において、脚本を手掛けたジェームス三木氏が、市内の歴史研究家に相談し創作したものです。

では、鷹山の雅号(詩を読むときのペンネーム)はどこからきているのでしょうか?これはあくまでも推論ですが、鷹山公の兄である高鍋藩主秋月種茂公が『鶴山(かくざん)』と雅号を名乗っています。秋月種茂公は鷹山公とも並び称される名君のひとりであり、実兄である兄を尊敬していたが故、同じような雅号にしたのではないかと考えられます。

かりあげ餅の逸話

老婆の手紙と足袋

安永6年(1777)の秋に、「ひでよ」というおばあさんが稲を干していました。夕立ちがきそうだったため急いで片づけていたところ二人の侍が通りかかって作業を手伝ってくれました。お帰りの際に「刈り上げ餅をお持ちしたいので、どちらにお持ちすればよろしいか?」と伺った際に「お城の北門に届けるように」と言われたため、お餅を33個丸めて持って行ったところ、その手伝ってくれた方が侍ではなくお殿様(鷹山公)だったと聞いたため、腰が抜けるほど驚きました。餅への褒美として銀5枚をいただいたので、そのお金で足袋を作り娘(おかの)や孫に手紙と共に渡しました。

その手紙と足袋が米沢市内の宮坂考古館に所蔵されています。農民の作業をお殿様自ら手伝ったことも稀な出来事ですが、それよりも200年以上前にも関わらず、女性であるひでよさんと娘さんが読み書きできる識字率の高さにも注目です。

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