明治天皇行在所遺趾

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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明治天皇行在所遺趾 丸の内一丁目

明治天皇が東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)

左側に大きな木が2本立っており、その横に「行在所遺趾」の文字が刻まれた大きな石碑の写真

石碑の上部に、伯爵上杉憲章(のりあき)筆の「明治天皇」の篆刻(てんこく)、中央に「行在所遺趾」の題字が刻まれる

明治14年の東北巡幸

 明治維新後、天皇は京都から東京に移られ、以後97回の巡幸を行い、日本全国を巡りました。その目的は、民衆の人心を掌握し、明治新政府の正当性を権威づけることにあったとされます。
 明治14年には北海道・秋田・山形の巡幸が実施されました。9月12日に秋田県より山形県に入られ、29日に山形市に到着、11月1日には高畠町に宿泊され、翌2日に米沢に到着されました。
 行在所(あんざいしょ)は新築間もない南置賜郡役所が選ばれ、郡役所で小休止後、門東町の興譲小学校と裁判所、舘山の米沢製糸場を視察されました。興譲小学校では学務委員の湯野川忠国(音楽評論家・湯川れい子氏の曽祖父)などが出迎え、小学生の宇佐美勝夫(後の東京府知事)などが教科書の朗読を披露しました。
 また、郡役所には天覧陳列場が設営され、糸織・袴地・筆・将棋駒などの特産品や、上杉家に伝来した甲冑・刀剣や洛中洛外図屏風等が陳列されました。天皇は刀剣に興味を示され、上杉家は守家(もりいえ)の太刀と備前国宗(びぜんくにむね)の短刀を献上しています。翌3日は、多数の見送りの中で出発され、山形県令三島通庸(みちつね)の案内で開通したばかりの栗子隧道(ずいどう)を通り福島県に向かわれました。

行在所となった南置賜郡役所

 南置賜郡役所は、木造二階建てのモダンな洋風建築でした。明治14年9月の竣工で、上杉神社前から大町まで切り開かれた県社(けんしゃ)通り(当時は上杉神社が県社であったことに由来)に面しています。
 郡役所は明治22年に南置賜郡から米沢市が離脱した後も、南置賜郡役所として利用されてきましたが、大正8年の米沢大火で類焼し、天皇が使用された玉座の間も焼失しました。
 大正10年、明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを後世に伝えるため、この大きな石碑が建てられたのです。石材は宮城県から運ばれたもので、題字は伯爵上杉憲章に依頼しました。裏面には明治14年の行幸の様子と、石碑建立の経緯が記されています。撰文(せんぶん)は伊佐早謙、書は佐藤豊吉で、佐藤亀捴が刻んでいます。

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