浅間厚斎之碑

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

「城下町ふらり歴史探訪」は、「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事で、米沢市に残る史跡などをわかりやく解説しています。

「1.普門院」から「60.聖堂(先聖殿)と鷹山筆の扁額」は平成5年5月1日号から平成10年4月1日号、
「61.堀粂之助の墓」から「86.観世音堂の裁縫絵馬」は平成26年10月1日号から平成29年9月1日号の記事を転載し、一部再編集したものを掲載しています。

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浅間 厚斎之碑 丸の内一丁目

米沢藩に西洋砲術と大砲を導入した藩士

両脇を大きい木の幹で挟まれている灰色の大きな浅間厚斎顕彰碑の写真

松が岬公園の北西側の土塁に建つ浅間厚斎顕彰碑

吉田晩稼の筆が書き上山の石工・西川彦七が刻んだ文字が横一列入っている拡大写真

篆刻は旧藩主の上杉斉憲、碑文は門人の小田切盛徳(長男の万寿之助は上海総領事、横浜正金銀行取締役)の選です。

江戸で西洋砲術と大砲製造を学ぶ

 厚斎(こうさい)(厚斎は号・本名は浅間翁助親賢)は文化2年(1805)に御馬廻組の尻高光隆の次男として生まれ、五十騎組の浅間家の婿養子となりました。天保4年(1833)から藩校興譲館で寄宿生として3年間学び、同10年(1839)に34歳で家督、翌11年から再び興譲館に入り助読(通学生を指導しながら学ぶこと)を3年間勤めました。その後、藩主夫人の目付(側役)を勤める中、西洋砲術の重要性を認識しました。
 日本の西洋砲術は長崎の高島秋帆(茂敦)がオランダ人から学んだことに始まり、伊豆の韮山代官・江川太郎左衛門(英龍)に伝授されました。
 嘉永3年(1850)、厚斎は江川の門人・井狩作蔵が江戸で砲術を教えていることを知り、自分入料(自己負担)で江戸に登って門人となり、西洋砲術を習得しました。ただし、弾丸・火薬などの経費のため、浅間家では衣服や什器を売り、質素清貧な生活を余儀なくされ、周囲から失笑されたとの苦労話が石碑に刻まれています。

大砲製造し鉄砲総支配に昇進

 江戸で学んだ厚斎は、翌4年8月、銅屋町の鋳物師・鈴木善兵衛と共にハンドモチールと称される大砲を鋳造し、発砲演習を行いました。師匠の井狩は高弟の岡健蔵を派遣、発砲は成功し、厚斎は小判10枚、岡は小判3枚の褒賞を受けました。
 嘉永6年のペリー艦隊の浦賀来航は日本中を驚かせると共に、西洋砲術の優位性を認識させました。米沢藩でも加速的に火縄銃から西洋砲術への転換が図られます。厚斎は洋式銃隊総裁として西洋砲術を指導し、文久2年(1862)には米沢藩鉄砲隊のトップである鉄砲総支配に任命されました。
 また、大砲製造も続け、銅屋町の鈴木清兵衛に12封度加納や6封度ランケホイッスルなどを鋳造させました。

明治17年に門人たちが建立

 厚斎は文久3年(1863)に57歳となり隠居しました。その後の戊辰戦争では、厚斎が指導した西洋砲術隊が越後戦線などで活躍しました。明治9年に72歳で死去、墓は西蓮寺にあります。
 明治17年、門人たちが厚斎を偲び顕彰碑を建てました。碑文は著名な書家・吉田晩稼の筆で、上山の石工・西川彦七が刻んでいます。吉田は長崎で高島から砲術を習った所縁もあります。

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