長命寺本堂

更新日:2024年03月29日

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 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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長命寺本堂 中央三丁目

現存する唯一の旧米沢城の建物遺構

周りには雪が積もっている参道の先には長命寺の建物が建っている写真

長命寺

細かく装飾され金色をした上杉謙信公位牌を近くから撮った写真

上杉謙信公位牌
不識院殿前関東管領権大僧都法印真光謙信神儀と刻まれる。

全体が黒ずんで文字が読みづらい棟札本体と、棟札に書かれた文字だけが浮き上がるように表示された赤外線の画像が並んでいる写真

棟札(左側は赤外線写真)
法音寺・大乗寺や大工など多くの関係者の名が記される。

謙信遺骸を祀る御堂の変遷

 上杉謙信が越後の春日山城で永眠したのは天正6年(1578)3月13日のこと、享年49でした。遺骸に甲冑を着せ、大きな甕(かめ)に納め、漆や塩で密閉したと言われています。その後、跡を継いだ上杉景勝と共に会津、米沢に移されました。

 景勝は謙信の遺骸を米沢城に安置し、慶長14年(1609)は日当たりの良い本丸東南隅の高台に御堂(みどう)(霊廟:れいびょう)を建立、二の丸には御堂に仕える真言宗寺院を並べ置きました。本丸に遺骸、二の丸に寺院を配置する城は珍しいもので、いかに景勝が謙信を崇敬していたかが伺われます。

 御堂には歴代藩主の位牌が並べられ、最も神聖な場所として篤(あつ)く信仰されました。上杉鷹山が天明の飢饉(ききん)の際、御堂に篭(こも)って天候回復を願った話が有名です。

 しかし、幕末の嘉永2年(1849)の暮、火災により御堂が焼失、消火にあたった藩士1名が焼死する事故がおきました。直ちに再建が進められ、翌3年に現在の御堂が完成しました。

 その後、明治維新を迎え、明治5年に謙信・鷹山を祭神とする上杉神社が認可され、同9年には本丸御殿跡に社殿が創建されました。それに連動し、謙信の遺骸は歴代藩主の眠る御廟所に移され、御堂内は空になりました。

明治10年、長命寺に移築

 長命寺(ちょうめいじ)は真宗大谷派の寺院で、上杉家との関わりで信州から越後、会津、米沢に移り、北寺町に寺地を賜りました。本山の東本願寺から、御坊(ごぼう)の寺格が与えられたお寺でもあります。文政7年(1824)の亥ノ子屋(いのこや)火事で類焼しますが、同11年には再建されました。

 しかし、明治8年に本堂が火災で焼失、再建する際に着目されたのが、まだ新しく中が空となっていた御堂でした。住職と檀家は建物を管理する米沢義社(旧藩士が設立した会社)に払い下げを要請、同9年末に許可となり、同10年、御堂は長命寺に移され、本堂に改築されました。

 払い下げの時、御堂内にあった嘉永3年再建時の棟札(むなふだ)(建物の由緒・建築年月日・建築者・大工などを記録した木札)、法華経六巻、上杉謙信公位牌が一緒に移され、長命寺の寺宝として大切に保管されています。真宗大谷派の寺院に法華経は違和感がありますが、謙信遺骸を祀(まつ)る御堂が移築された由緒を示す、貴重な文化財です。

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