竹俣当綱の墓

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

「城下町ふらり歴史探訪」は、「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事で、米沢市に残る史跡などをわかりやく解説しています。

「1.普門院」から「60.聖堂(先聖殿)と鷹山筆の扁額」は平成5年5月1日号から平成10年4月1日号、
「61.堀粂之助の墓」から「86.観世音堂の裁縫絵馬」は平成26年10月1日号から平成29年9月1日号の記事を転載し、一部再編集したものを掲載しています。

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竹俣当綱の墓 南原横堀町

藩政改革を主導した人物

木々に囲まれた中左から大きな俵型の墓石とそれと同じくらいの高さの長方形石造があり、その右に竹俣美作当綱墓所と彫られた石造がある写真

常慶院本堂の南東、竹俣家墓域の隅にあります。

全部セピア色で狩衣を着用し、扇子を右手に持ち左手の上に添え、顔には口の周りを囲う髭をたずさえておりキリっとした眉毛と対する丸みがある輪郭の竹俣当綱の自画像

 竹俣当綱(たけのまたまさつな)は上杉治憲(鷹山)時代の奉行(国家老(くにがろう))で、藩政改革を主導した人物です。

名門竹俣家に生まれ奉行に昇進

 当綱は享保14年(1729)9月17日に竹俣本綱(もとつな)の長男として誕生しました。竹俣家は、越後時代は竹俣城(新発田市)の城主で、上杉家に従い会津・米沢に移った名門です。
 当綱3歳の時に父が病死し、18歳の時に祖父より家督、禄千石で侍組に入ります。宝暦11年(1761)には江戸家老に昇進し、同13年に藩主重定の寵臣(ちょうしん)・森平右衛門(もりへいえもん)を誅殺(ちゅうさつ)しました。その後、奉行に昇進し国政を担当、重定に倹約や改革を迫りますが容易に進みません。当綱は重定に隠居を進言、明和4年(1767)ようやく重定は48歳で隠居しました。

改革を主導するが失脚

 第9代藩主となったのが養子の治憲(鷹山)で17歳でした。当綱は39歳、鷹山の右腕として藩政改革を力強く主導します。江戸の豪商三谷家から資金援助を受け、漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)の各百万本植立、越後から縮織職人を招聘(しょうへい)、郷村出役(ごうそんしゅつやく)の派遣などの農政改革、藩校興譲館の開設など、諸改革を断行しました。
 しかし、改革の成果は直ぐには表れず、天明2年(1782)に取行不届(とりおこないふとどき)の理由で隠居押込(いんきょおしこめ)の処罰を受けました。当綱は幽閉中でも改革意見書を書き続け、後には罪も赦(ゆる)されましたが、寛政5年(1793)に65歳で死去しました。法名は大忠院殿雄山良英居士です。

平洲の墓碑銘とその後の顕彰

 墓は竹俣家の菩提寺である南原の常慶院にあり、鷹山の師・細井平洲の記した墓碑銘が刻まれています。平洲は、邪を払ったこと(森誅殺)、鷹山の先生に儒学者を採用し学問を広めたこと、農村に教導役を派遣し教化したことなどの功績を讃(たた)えています。また「物を処する果敢なり、故に毀誉(きよ)は交(こも)ごもに至る」と、強い決断力があり、そのため評価が分れるとも記しています。改革を始めるには、こうした強いリーダーシップが必要であったと思われます。
 その後、次第に改革の成果が表れ、天保7年(1836)に上杉斉定(なりさだ)は幕府より鷹山以来の善政を賞されました。その際、当綱は中興第一の功臣として碑面に銀10枚が贈られます。また、明治41年には正五位に追増、昭和13年には松岬神社に合祀されました。

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