官軍墳墓の地・堀尾 啓助の墓

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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官軍墳墓の地・堀尾 啓助の墓 福田町二丁目

激動の時代を生きた米沢藩士

周りに民家が建ち並んでいる墓地の一角に、石柱で囲まれたお墓が設置されている写真

輪王寺墓地の南東の角にひっそりと眠っています。

標柱のそばに丸みを帯びた3基の墓石が建てられている写真

「官軍墳墓の地」の標柱

「輪王寺」と書かれた石柱の先に、きれいに剪定された植木や、黒色の屋根をした立派な建物が建っている写真

輪王寺

米沢藩降伏後に起きた悲劇

 堀尾啓助(ほりおけいすけ)は米沢藩士・堀尾保助(ほりおほすけ)(後に重興(しげおき))の長男で、明治元年(1868)は19歳という若者でした。戊辰戦争において米沢藩は奥羽越列藩同盟の主軸として新政府軍と戦いますが、次第に戦況が悪化し、土佐藩などの斡旋で降伏しました。正式な降伏は9月11日で、上杉茂憲が新発田で仁和寺宮(にんなじのみや)に謝罪し、降伏が受け入れられました。
 降伏後、米沢藩は新政府軍から会津や庄内への出陣を命じられますが、一方では仲間であった列藩同盟の諸藩に対して降伏の斡旋・説得を行いました。
その際、盛岡藩への使者に命じられたのが堀尾啓助と松本誠蔵(まつもとせいぞう)(31歳)。二人は役目を果たし帰路に就きますが、9月22日に仙台藩領の柴田郡野上宿(宮城県川崎町)で仙台藩士たちに襲われ、翌日死去しました。仙台藩も降伏を検討していた時期で、末端まで指令が伝わらない混乱時に起きた悲劇でした。

慰霊と名誉回復の運動

 米沢藩は二人の死を悼み、弔慰を伝え10両の功労金を贈りました。また、二人は新政府軍から了解を得た使者であることから、官軍戦没者として慰霊すべきとの運動が始まります。明治3年、米沢藩は政府に「国事」の戦死者として表彰を願いました。その願いは却下されましたが、米沢では墓の側に「官軍墳墓の地」の標柱が建てられたのです。

靖国神社に合祀-坂本龍馬より早く

 その後も名誉回復の運動は続き、明治8年には東京招魂社(現在の靖国神社)への合祀願いが置賜県や上杉茂憲から提出されました。その願いが叶ったのは明治12年のこと。戊辰戦争前後に遡って行われた最初の合祀でした。その後、明治16年に坂本龍馬などが合祀されています。禁門の変で京都御所を守って戦死した会津藩士が靖国に合祀されたのは、大正4年のことでした。

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