堀粂之助の墓

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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堀 粂之助の墓 東寺町

悲劇の会津藩士

左側に緑色の屋根で赤い木で囲ってある建物の中に仏堂やお供え物があり、その横にある堀粂之助の墓を正面からうつした写真

龍泉寺(りゅうせんじ)にある堀粂之助の墓

墓前の前で男性が手を合わせてお祈りしている様子とその後ろで見守るたくさんの人々たちの写真

墓前祭

会津藩からの使者

 粂之助(くめのすけ)は天保9年(1838)に、会津藩士・堀清左衛門(ほりせいざえもん)の長男として生まれました。文武に優れ、藩校南学館(なんがくかん)[身分の低い藩士の学校。上級藩士の子弟は日新館(にっしんかん)に学んだ]の助教となり、京都では精選組(せいせんぐみ)隊士となります。
 戊辰(ぼしん)戦争が始まると、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)と共に会津へ戻り新政府軍と戦いますが、明治元年(1868)8月23日に会津若松城は、新政府軍に包囲され、厳しい籠城(ろうじょう)戦が始まりました。この危機に、堀粂之助と吉村寅之進(よしむらとらのしん)二人は、容保から米沢藩へ援軍依頼の命を受け、敵の包囲網をくぐりぬけて米沢に向かいました。

使命は果たせず…

 二人の米沢到着は9月3日、直ちに米沢藩首脳に援軍要請しました。しかし時すでに遅く、米沢藩は新政府軍への降伏を決意した直後でした。
 米沢藩は奥羽越列藩同盟の主軸として、主に越後で新政府軍と激戦を交えました。一時は長岡城奪回に成功しましたが、7月29日には新潟港が陥落し総督の色部長門(いろべながと)も戦死、8月中旬には敵兵が国境に迫る勢いでした。そうした中、上杉家と親戚の高知藩山内(やまうち)家や広島藩浅野家等から降伏斡旋が届き、ついに降伏を決めたのです。
 援軍が無理と悟った粂之助は、米沢藩が駄目なら仙台藩に依頼すべきとする吉村の意見を容れず、使命を果たせなかったとして、9月5日(新暦では10月20日)に宿舎で割腹しました。享年31でした。

 辞世の歌は、神かけて 誓ひしことの かなはねば ふたたび家路 思はざりけり

遺体は、その死を悼んだ米沢の人たちによって龍泉寺に葬られました。

現在に続く慰霊

 昭和46年、悲劇の会津藩士の事蹟を顕彰しようと墓が整備され、墓碑や辞世の歌を刻む石碑が建てられました。墓碑の揮毫(きごう)は、松平容保の孫にあたる松平勇雄参議院議員によります。今でも市内や会津から多くの人が墓参に訪れています。毎年、10月20日に墓前祭が催されます。

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