法音寺

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
法音寺 御廟1丁目
上杉家の位牌檀を備える

荘厳な法音寺の上杉家御霊屋

謙信公の信仰した毘沙門天像
上杉家に従い六日町から米沢に移る
今月は上杉家歴代藩主墓所(御廟所)の前にある法音寺と、堂内の上杉家位牌壇を紹介します。
法音寺は真言宗(豊山派)の寺院で、山号は八海山。もとは越後国南魚沼郡(現・新潟県六日町)の八海山の麓にあって、上杉家の移封に伴って越後から会津、米沢城二の丸に移り歴代藩主の菩提寺となりました。
歴代藩主の菩提寺として御堂に仕える
そもそも上杉家(長尾家)の菩提寺は曹洞宗の林泉寺で、上杉謙信も幼い頃に林泉寺で仏道を学びましたが、一方では真言密教に深く帰依し、謙信の葬儀は真言宗の大乗寺が導師を務めました。その後、謙信の跡を継いだ景勝は、会津、米沢への移封に際し謙信の遺骸(甕に納まる)も移し、米沢城本丸の御堂に安置して、二の丸に置いた法音寺・大乗寺・蔵王堂などの真言宗寺院に手厚く祀らせました。そして景勝も謙信にならい真言密教に帰依し、遺言で導師を法音寺の能海和尚に命じ、以後、米沢藩歴代藩主の葬儀は景勝の例に従い法音寺が導師を務めることとなりました。
こうして米沢藩主の菩提寺となった法音寺は、二の丸真言宗寺院(二一ヵ寺)の頭として御堂の奉仕を司り、領内の真言宗寺院を統括しました。御堂の謙信遺骸の両脇には謙信の信仰した毘沙門天像・善光寺如来像が置かれ、上杉家歴代藩主の位牌壇も作られ、真言宗の修法で毎日供養されました。
明治維新後に御廟所前に移転
明治になると新政府の神仏分離政策の影響を受け、明治3年8月に法音寺は二の丸から歴代藩主のねむる御廟所前(末寺の延命寺があった場所)に移転することとなり、寛保2年(1742)再建の本堂を移築しました。約350年前の建物となります。
また、御堂の祭礼は仏式から神式と変わり、明治9年には本丸跡に上杉神社が建ち謙信遺骸は御廟所に移されました。その際、御堂に祀られていた上杉家位牌壇や毘沙門天像などが法音寺に伝えられ、その後、善光寺如来像や付属の仏具も法音寺に納められました。
歴代藩主の金色に輝く立派な位牌や由緒ある仏像が並ぶ法音寺の上杉家位牌壇、名門上杉家の歴史を静かに物語ってくれます。
この記事に関するお問い合わせ先
(社会教育担当、文化振興担当、文化財担当)
〒992-0012 山形県米沢市金池三丁目1番14号 置賜総合文化センター1階
電話:0238-22-5111 ファックス:0238-21-6020
お問い合わせフォーム
更新日:2024年10月04日