新貝弥七郎と山吉新八

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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新貝弥七郎と山吉新八の墓 林泉寺1丁目、城南5丁目

忠臣蔵の討ち入りに遭遇した米沢藩士

左側に家のような形をした石造のお墓とその右隣に石造りの長方形の山吉家の墓がある写真

照陽寺にある山吉家の墓

家のような形をしている正方形の部分に、9つ小さい正方形の穴があいていてる石造りの新貝弥七郎の墓の写真

林泉寺にある新貝弥七郎の墓

吉良家と上杉家の三重の縁

 12月になると、テレビなどでは決まって「忠臣蔵」が話題となります。元禄14年(1701)の12月14日の深夜(15日未明)、旧赤穂藩浅野家の家臣47人が吉良邸を襲い、吉良上野介義央を討ち取ってから、今年は296年目となります。この吉良義央と上杉家とは深い関係がありました。上杉定勝(2代藩主)の末娘「三姫」が義央に嫁ぎ、2人の間に生まれた「三郎」が、急死した3代藩主上杉綱勝の跡を継ぎ、僅か2歳で米沢藩主となりました。後の綱憲です。さらに、綱憲の次男「義周」が吉良義央の養子に入り吉良家を相続しました。三重の縁と呼ばれる所以です。

新貝弥七と山吉新八の墓

 元禄14年の討ち入りの際、吉良義央はすでに隠居し養子義周が当主で、吉良邸には義周の小姓に実家上杉家から新貝弥七郎・山吉新八・村山甚五右衛門の3人が遣わされていました。いずれも米沢藩家臣の次・三男から選ばれた者です。
 「忠臣蔵」や小説では数多くの米沢藩士が吉良邸を警備していたことになっていますが、米沢藩の記録ではこの三人だけです。それも「松の廊下事件」以前から義周に小姓三人が付き添ってきたもので、赤穂浪士の討ち入りに備えたものではありません。
 さて、この三人ですが、討ち入り直後に吉良邸を見聞した米沢藩士の手紙や記録により、討ち入りの時の働きがわかります。
 新貝は玄関で槍(堀部安兵衛の槍といわれる)に突かれ死んでいました。米沢藩ではその死に報い、新家に取立て馬廻組に入れ、弟に継がせました。墓は林泉寺にあり戒名は「刀山宗剣居士」です。
 一方、山吉は負傷し気絶した状態で見つかりました。赤穂浪士と激しく斬り合ったようで、刀は「ささら」のようになり、検使の幕府役人からは「御知行もの」と活躍が評価されました。その後山吉は、諏訪高島藩にお預けとなった義周に随い、身の廻りの世話をし、義周死後に米沢に戻りました。米沢藩はその功績に対し、藩士(三人扶持五石で五十騎組)に取り立てました。宝暦3年(1753)に死去、墓は照陽寺にあります。
 ところでもう一人の村山ですが、米沢藩士が着いた時には姿が見えず、「赤穂浪士に生け捕りにされたのでは」と記されています。実際は逃亡したものと思われます。三者三様の対応があったようです。

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