那須与一の供養塔

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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那須与市の供養塔 中央5丁目

弓の達人那須与市供養塔が米沢に

三重の塔の形をしており、一段目が6つ小さい正方形、二段目が鐘の形、三段目が月と丸の形、其々穴があいている供養塔の外観写真

那須与市の名を刻む三重の石塔

 今月は、那須与市の供養塔と伝えられる石塔を訪ねました。米沢市中央五丁目、西蓮寺の北西隣にある虚空蔵菩薩堂の前に建つ三重の層塔です。
 高さ約4.2メートルと大きな層塔で、2段目の中には五輪塔が納められています。また、2段目の外側中央には「供養塔」、その両側には「那須与市宗隆公」「千坂対馬守景親公」と刻まれ、裏には「享保四年孟夏十三日建立」と建立日が刻まれています。

弓の達人、那須与市

 那須与市宗隆(「平家物語」では宗高)は鎌倉初期の武士で、下野国(しもつけのくに=栃木県)の豪族那須資隆の11番目の子といわれます。
 与市は源義経に従い、文治元年(1185)2月の屋島の戦いにおいて、平家方が小船に立てた扇の的をみごとに射落し、源平両軍から称賛されたことで有名です。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に名場面として描かれ、その後、能や歌舞伎でも演じられ広く知れ渡りました。
 与市はこの功により、武蔵国太田荘など5ヵ所の所領を拝領し、その後は、山城国(京都)で死去したとか、越後に追われたとか言われています(詳細は不明)。ただし、那須家は与市の弟の子が相続し、江戸時代も一万石の大名として続きました。

なぜ、那須与市の供養塔が米沢に

 石塔の建つ境内は、元は米沢藩の重臣千坂家の菩提寺、一花院(いっけいん=臨済宗)のあった場所で、虚空蔵菩薩堂と石塔は千坂家が建てたものと言われています。
 千坂家は元々は関東管領上杉氏の家臣で、越後守護となった上杉氏に従い越後に移り、その後は上杉氏を継いだ謙信(長尾景虎)の家臣となり活躍、上杉家に伴って米沢に移り、江戸家老等の要職を歴任しました。
 この千坂家が那須家と縁続きで(那須家から嫁入りしたと言う)、与市が守本尊とした虚空蔵菩薩像が伝わったと言います。また、千坂家は「与市」の名を代々通称に用いました。
 そして、謙信に仕え活躍した千坂景親が慶長11年(1606)に米沢で死去した際、千坂家歴代の墓として、遠祖で弓で名高い那須与市も一緒に供養した五輪塔が建てられ、享保4年に鞘堂としてこの石塔が建てられたものと思われます。
 なお、千坂家は日朝寺(日蓮宗)も菩提寺とし、一花院は幕末期には廃寺となり、この境内ならび虚空蔵菩薩像は近くの関興庵(臨済宗)が管理しています。

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