色部氏と千眼寺

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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色部氏と菩提寺千眼寺 窪田町窪田

有力武将色部氏の菩提寺

奥に木々に囲まれた千眼寺があり、手前に色部家の墓が複数3列に並ぶ色部家墓所と千眼寺の外観写真

千眼寺の色部家墓所

軍奉行色部修理進勝長(いろべしゅりのしんかつなが)

 今月は、上杉まつりの「武てい式」や「川中島合戦」で軍奉行を務める色部修理進勝長と、色部家菩提寺の窪田の千眼寺を紹介します。
 色部氏は、越後国平林城(新潟県岩船郡神林村)を本拠とした国人領主で、戦国期には当主勝長が上杉謙信の家臣として活躍、永禄四年(1562)の川中島合戦では謙信から「血染の感状(かんじょう)」を授かりました。こうした活躍から、まつりでは色部勝長が軍奉行を務めているのです。
 なお、血染の感状とは、血で書かれた感状(戦功を賞した文書)ではなく、大勢の配下の血(戦死・負傷)を代償として授かった感状という意味です。川中島の激戦を物語る史料の一つです。

色部氏の由緒と菩提寺千眼寺(せんげんじ)

 次に色部氏の由緒をたどれば、先祖は坂東八平氏の1つ秩父氏で、鎌倉幕府の地頭として越後国小泉庄に着任。長男が北部本庄の地頭となり本庄氏を名乗り、次男が南部の加納(色部条・牛屋条・粟島からなる)の地頭となって色部氏を名乗りました。
 その後、色部氏と本庄氏は在地領主として次第に力を蓄え、戦国期には有力な国人領主へ発展しました。色部氏居城の平林城は「要害山」とも呼ばれた山城と、普段の生活の場である麓の「館」からなり、現在も曲輪・土塁・門跡などが残り、国指定の史跡となっています。
 色部氏の菩提寺は平林城の北東に建つ千眼寺です。本尊は千手観音。寺名は観音の千本の手の掌中に持つ眼(千眼)からとったものと思われます。始めは真言宗の寺院でしたが、天正年代に色部長真(勝長の次男)が曹洞宗に改めました。

上杉氏に従い米沢(窪田)に移る

 慶長3年(1598)、上杉景勝は会津120万石に移封となり、これに従い色部氏も越後平林城から出羽金山城(南陽市)に移りました。さらに同六年の米沢30万石削封に伴い、色部氏は米沢城下に移り、窪田に知行地ちぎょうちが与えられました。
 菩提寺千眼寺も色部氏に従って越後から金山、窪田に移り現在にいたっています。また、越後平林(神林村)にも千眼寺が残りました。窪田千眼寺の本堂正面には色部家墓所があり、歴代の五輪塔が建ち並んでいます。
 なお、境内の保呂羽堂(ほろはどう)は裸の餅搗きで有名ですが、これについては歴史探訪第8号で詳しく紹介しています。

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