直江兼続の鉄砲鍛造遺跡

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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直江兼続の鉄砲鍛造遺跡 大字関

白布に鉄砲師を招き火縄銃を製造

右側に「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」と彫られた碑があり、後ろに2本に枝分かれした木が生えており、左手に文章がかかれた白いボードが立ててある直江兼続の鉄砲鍛造遺跡の写真

直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑

 今月は、白布温泉の西屋・中屋・東屋前の広場に建つ「直江城州公鉄砲鍛造遺跡(なおえじょうしゅうこうてっぽうたんぞういせき)」の石碑を紹介します。
 直江城州公とは上杉景勝の第一の重臣である直江山城守兼続のことで、石碑は、兼続がここ白布高湯で火縄銃を製造させたことを記念し、昭和45年に建てられたものです。

鉄砲師を招き火縄銃を製造

 慶長6年(1601)、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石と領地を削られ、腹心の直江兼続が中心となって米沢の城下町整備が始まりました。また、徳川との交渉も兼続によって友好的に進められる一方、その陰では戦いの準備にも心を配り、当時最も優れた武器である鉄砲の領内製造に着手しました。
 慶長9年、兼続は江州国友村(ごうしゅうくにともむら=滋賀県長浜市)から鉄砲師の吉川惣兵衛、泉州堺(大阪府堺市)から泉谷松右衛門を呼び寄せ、人里離れた白布高湯を鍛冶工場とし火縄銃を製造させました。その数は1000挺、筒の種類は10匁筒(玉の重さが10匁、1匁は3.75グラム)・15匁筒・20匁筒・30匁筒と言われています。
 白布に鍛冶工場を置いたのは、人目を避け密かに製造するためと、火薬の原料の硫黄、鍛冶に必要な大量の炭の供給を考えたものと思われます。あずまユースホステル(現・米沢市森林体験交流センター)建設の際、整地したところ大量の木炭屑や鉱滓が見つかり、鍛冶工場の跡と考えられました。また、西屋・中屋・東屋には、先祖が鍛冶職人の賄い等の世話を行った記録・伝承が残っています。職人の宿舎は、旅館前に置かれたのでしょうか。なお、吉川・泉屋などの鉄砲職人は、その後は米沢城下に屋敷を与えられ鉄砲屋町を形成、藩から知行・扶持を受け、鉄砲の製造・修理を続けました。

大坂冬の陣で大活躍

 また兼続は、鉄砲製造と共に、射撃の心構えや注意事項等を記した「鉄砲稽古定」を発し、射撃訓練を奨励しました。
 こうした訓練や白布での鉄砲製造の成果は、慶長十九年の大坂冬の陣で発揮されました。上杉軍の鉄砲隊は鴫野(しぎの)の戦いで大活躍し、兼続や杉原等の武将は徳川秀忠より感状を受けています。

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