雲井龍雄の遺跡

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
雲井龍雄の遺跡
憂国志士・雲井龍雄

北村公園にある「討薩檄」と龍雄のレリーフ

雲井龍雄遺跡
生誕の地と猛勉強の逸話
今月は、幕末の志士(身をすてて国のために尽くす人)、情熱の詩人として有名な雲井龍雄(くもいたつお)の遺跡を紹介します。
龍雄は、弘化元年(1844)正月25日、袋町の中島惣右衛門の次男として生まれました。現在の松が岬二丁目、村山織物工場あたりになります。
幼名は猪吉、その後は権六、熊蔵、龍三郎と名を替え、遠山翠、桂香逸など数多くの変名を用いましたが、雲井龍雄の名が最も知られています。
龍雄は小さい頃から優秀な児童でしたが、さらに猛烈な勉強を続けました。夜になっても書物を読み、眠気がすると顔を冷水で洗ったり、辛い物を口にして眠気をさまし、それでも眠くなると棍棒で頭をたたいて読書を続けたという話が知られています。また、藩校興譲館に通学し、興譲館の書籍をすべて読み尽くしたという逸話も残っています。実際、3,000冊ともいわれた興譲館の蔵書をすべて読んだかは不明ですが、そうした噂が生まれるほど、龍雄の猛勉強・神童ぶりが有名だったのです。
憂国志士・雲井龍雄の遺跡
龍雄は18歳の時、叔父にあたる小島才助の養子となり、才助の病死により20歳で小島家を家督しました。小島家は組外御扶持方(くみほかごふちかた)に属する下級家臣で、家は舘山口町にありました。現在の城西一丁目、海谷酒店の場所です。昭和13年、龍雄を顕彰するため、この旧小島家の一角に「憂国志士・雲井龍雄遺跡」の石塔が建られました。
戊辰戦争に奔走、「討薩の檄」
家督後の龍雄は、高畠に出張して仕事を勤めながら漢詩作りに励み、22歳の時に江戸出府を命じられました。江戸では、勤務のかたわら安井息軒(やすいそっけん)の三計塾に学び頭角を表わし、全国から集まった優秀な塾生と交友を広めると共に、時勢に目覚め、日本の将来を真剣に考ました。
そして、幕末の混乱期には密命を帯びて京都で活動、その中で薩摩藩の横暴を目にし、戊辰戦争中には薩摩藩を批判した「討薩檄」を作り奥羽越列藩同盟軍を勇気づけました。
昭和51年、北村公園に龍雄胸像のレリーフが作られましたが、この台座には「討薩檄」が刻まれています。
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更新日:2024年10月04日