長手の天満神社

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
長手の天満神社 大字長手
長井時広が北野天満宮を分霊

天王川にかかる天神大橋

杉林を歩く

天満神社
今月は、米沢市大字長手の天満神社を訪ねてみました。
天満神社(宮)は学問に優れた菅原道真を祀った神社で、学問・受験の神様として信仰され、九州の太宰府天満宮や京都の北野天満宮が有名です。
長手の天満神社の由来は、長井時広が北野天満宮から分霊し、梓川のほとりに宮を建てたと伝えられています。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、長井庄(置賜地方)の地頭に大江広元を任命、広元の次男時広が長井庄を受け継ぎ、長井氏を名乗りました。時広は置賜を支配するにあたり、大江家が信仰していた北野天満宮を分霊したのです。その後、長井氏に代わって伊達氏が置賜を支配しましたが、伊達家も天満宮を厚く保護し、伊達家の家臣網代伯守(あじろほうきのかみ長手城山に館を築く)が、戦乱で焼失した天満宮の再建にあたりました。また、伊達氏が岩手山に移った際、網代氏も政宗に従って移動しましたが、網代伯守は一族を長手に残して天満宮の宮守に命じました。
道真が自ら彫った木造を安置
上杉時代には、上杉家家臣で郡代を務めた島田正信が熱心に信仰、自分の持つ菅原道真像を長手の天満宮に合祀し、寛永12年(1635)に社殿を再建しました。この道真像には、次の伝承が残っています。
正信は秀吉の朝鮮出兵に従軍、帰国の際に、海上に月の光を受けて輝くものを見つけ拾い上げたところ、日ごろ信仰していた菅原道真の木像でした。これは、道真が太宰府に左遷された時に自ら7体の像を彫り海に流したものの1つに違いないと思い、以後、大事に保管・信仰したといいます。
その後も島田家や地域の保護を受け、長手に残った網代氏の子孫が修験(梅竜院)となって天満宮を維持、明治維新後には天満神社と改称し、郷社となりました。
現在、天満神社の前を流れる天王川には、朱塗り・三連の太鼓橋が掛けられ、社殿には学問の神様にふさわしく、和算の問題と解答を記した算額が掲げられています。また、社務所の裏には、永正7年(1510)に建てられたという古い石塔があります。
勉強の合間に、朱塗り・三連の太鼓橋を渡って、菅原道真が自ら彫った像に、学問の成就を願ってみてはいかがでしょうか。
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更新日:2024年10月04日