長手の天満神社

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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長手の天満神社 大字長手

長井時広が北野天満宮を分霊

青々とした草木が生い茂る中央に右から左へと赤い橋が架かっている写真

天王川にかかる天神大橋

手前に御社天満神社と彫られた石があり、杉林の間にある参道の写真

杉林を歩く

森林に囲まれ石で出来た灯篭2本の少し後ろに天満神社と書かれた立札が飾られた木造の神社がある写真

天満神社

 今月は、米沢市大字長手の天満神社を訪ねてみました。
 天満神社(宮)は学問に優れた菅原道真を祀った神社で、学問・受験の神様として信仰され、九州の太宰府天満宮や京都の北野天満宮が有名です。
 長手の天満神社の由来は、長井時広が北野天満宮から分霊し、梓川のほとりに宮を建てたと伝えられています。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、長井庄(置賜地方)の地頭に大江広元を任命、広元の次男時広が長井庄を受け継ぎ、長井氏を名乗りました。時広は置賜を支配するにあたり、大江家が信仰していた北野天満宮を分霊したのです。その後、長井氏に代わって伊達氏が置賜を支配しましたが、伊達家も天満宮を厚く保護し、伊達家の家臣網代伯守(あじろほうきのかみ長手城山に館を築く)が、戦乱で焼失した天満宮の再建にあたりました。また、伊達氏が岩手山に移った際、網代氏も政宗に従って移動しましたが、網代伯守は一族を長手に残して天満宮の宮守に命じました。

道真が自ら彫った木造を安置

 上杉時代には、上杉家家臣で郡代を務めた島田正信が熱心に信仰、自分の持つ菅原道真像を長手の天満宮に合祀し、寛永12年(1635)に社殿を再建しました。この道真像には、次の伝承が残っています。
 正信は秀吉の朝鮮出兵に従軍、帰国の際に、海上に月の光を受けて輝くものを見つけ拾い上げたところ、日ごろ信仰していた菅原道真の木像でした。これは、道真が太宰府に左遷された時に自ら7体の像を彫り海に流したものの1つに違いないと思い、以後、大事に保管・信仰したといいます。
 その後も島田家や地域の保護を受け、長手に残った網代氏の子孫が修験(梅竜院)となって天満宮を維持、明治維新後には天満神社と改称し、郷社となりました。
 現在、天満神社の前を流れる天王川には、朱塗り・三連の太鼓橋が掛けられ、社殿には学問の神様にふさわしく、和算の問題と解答を記した算額が掲げられています。また、社務所の裏には、永正7年(1510)に建てられたという古い石塔があります。
 勉強の合間に、朱塗り・三連の太鼓橋を渡って、菅原道真が自ら彫った像に、学問の成就を願ってみてはいかがでしょうか。

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