慶次清水

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
慶次清水 万世町堂森
かぶきもの前田慶次ゆかりの清水

今もわずかに水が湧き出る清水

善光寺にある前田慶次の供養塔善光寺では、毎年前田慶次の祥月命月の6月にあじさい忌を行っている。
今月は、堂森善光寺の西、八幡原野球場裏にある慶次清水を訪ねてみました。
現在は雑木林の中、わずかに水が湧きでている池があるだけですが、江戸初期に「かぶきもの」として知られる前田慶次が庵を結んだ所から、慶次清水と呼ばれています。
前田慶次は加賀100万石を築いた前田利家の甥で、故あって前田家を出、上杉家に仕えた武将です。最近、歴史小説(隆慶一郎著『一夢庵風流記』)に取り上げられ、さらに少年漫画(少年ジャンプ『花の慶次』)にも連載され、子供にも人気があります。
「かぶきもの」慶次の逸話
慶次は文学・和歌に優れ、源氏物語などの秘伝を授けられ、連歌も一流の歌人に交ざって詠んでいます。また、馬術・武道にも優れ、多くの戦場で大活躍した豪傑です。
このように文武に優れた慶次ですが、変ったことを行う「かぶきもの」でも有名です。叔父利家をだまし寒中に水風呂に入れ、その間に京に出奔した事、愛馬「松風」を贅沢に飾りつけ京の町並を歩いた事、風呂屋に脇差(実は竹光)を持って湯船に入り、驚いた周りの武士が脇差を持ち湯に入り刀を駄目にしたといった逸話があります。枠に収まりきれない、スケールの大きな人物でした。
上杉家を離れず、堂森で悠々自適の生活
慶次は京で自由に振る舞った後、上杉家に仕えました。同じく学問に秀でた直江兼続との親交、その主君景勝の信義を重んじる人柄に魅かれたものと思われます。 その後上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に削封され、新参家臣の多くが離れる中、慶次は他藩からの誘いを断りわずかな知行で米沢に留まりました。そして、郊外の堂森に小さな庵を建て「無苦庵」と名付け、悠々自適の生活をおくりました。
堂森での隠居生活も、生来の「かぶく」心は失われず、新築祝に招かれた時、「満つれば欠けることに気付け」と床柱を斧で傷つけ諭した等、多くの逸話を残しています。
慶長17年(1612)、堂森で死去。北寺町の一花院(現在廃寺となり墓は不明)に葬られたと伝えられ、堂森の善光寺には供養塔が建てられています。
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更新日:2024年10月04日