錦戸薬師堂

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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錦戸薬師堂(にしきどやくしどう) 赤崩

別名「コロリ薬師」薬師像は関根普門院に安置

切り立った岩に囲まれている、柱は黒く塗られている小さなお堂の写真
黒く塗られた柱に白い象を形どった木鼻きばな(貫や肘木の先に付けた装飾彫刻)の拡大写真

 今月は、コロリ薬師あるいは「澄心の泉」で有名な、米沢市赤崩(あかくずれ)の石木戸にある、錦戸薬師堂を訪ねてみました。西城戸薬師あるいは石木戸薬師とも書かれることがあります。
 赤崩を通る市道脇の参道口に「澄心の泉」があり、そこから杉木立の中の、非常に急な石段を登ること約15分、切り立った岩に囲まれて小さなお堂が建っています。黒く塗られた柱に白い象を形どった木鼻きばな(貫や肘木の先に付けた装飾彫刻)が印象的です。正面に懸けてある鰐口は、天保13年(1842)小松村宮地の氏子中(うじこちゅう)が奉納したものでした。
 江戸時代は別当の成就(じょうじゅいん=山上村・普門院末寺)が管理していましたが、成就院は明治初期に廃寺となり、関根の普門院が管理することとなりました。戦後は、盗難防止のため薬師像は普門院内に移され、5月8日と9月8日の例大祭の前夜、氏子たちが御輿に乗せて地区を練り歩き、この薬師堂へ安置します。
 錦戸薬師堂の由来は、江戸時代の地誌書をみると、本尊の薬師像は俵藤太(藤原秀郷)が平将門の乱を鎮めた戦功により、奈良薬師寺から遷座し守本尊としたもので、その後子孫の奥州藤原氏に伝わり、藤原秀衡の長男西城戸国衡(藤原泰衡の異母兄)の守本尊となったものと云われています。
 文治年(1189)、源頼朝が藤原泰衡を攻めた奥州合戦の際、奥州藤原軍は阿津賀志山(あつかしやま=福島県国見町)に三重の堀を築き、西城戸国衡を総大将にして守りましたが、頼朝の率いる大軍に敗れました。国衡は供の僧に守本尊の薬師像を託し、僧は出羽国に逃れて、この赤崩の地に草庵を結び、山腹に薬師堂を建て薬師像を安置したと伝えられています。また、秀衡の六男頼衡が吾妻山を越えこの地に安置したとも伝わっています。
 薬師如来はその名のごとく、人びとの病を救い癒す如来ですが、いつの頃からか、この錦戸薬師に祈願すると、苦しみ無く往生できるとの評判が立ちました。この仏教でいう「臨終正念」ともいうべき霊験により「コロリ薬師」とも呼ばれ、福島県を中心に各地から参拝者が訪れています。
 また、錦戸薬師堂の参道口に湧き出る「澄心の泉」も、これを飲むと同じく「臨終正念」の効用があると言われ、泉を汲みに来る人が今も絶えません。

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