上杉鷹山の倹約誓詞

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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上杉鷹山の倹約誓詞 城北2丁目

鷹山公が倹約を神に誓った

セピア色で着物に羽織を着ている髷頭の鷹山公の肖像画の写真

(県立米沢興譲館高等学校蔵)
鷹山公肖像

右から左へと達筆な文字で書かれた倹約の誓詞の写真

(白子神社蔵)
倹約の誓詞

 今月は、前回紹介した白子神社に、上杉鷹山などが納めた4通の「倹約誓詞」(市指定文化財)について、詳しく紹介します。
 上杉鷹山(治憲)が、養父重定を継いで上杉家10代(第9代藩主)となったのは、明和4年(1767)4月24日のことです。
 江戸後期になると、ほとんどの藩は財政危機に直面しますが、米沢藩の場合は、領地の減少と家臣数の多さ、たび重なる凶作などで、他藩にも増して厳しい状況でした。
 そうした時期、わずか17歳で藩主となった鷹山は、師の細井平洲から教えられた学問の影響もあって、強い意志で米沢藩の立て直しに取り組みました。その家督に際して詠んだ和歌は

「受け次ぎて国の司の身となれば、忘れまじきは民の父母」です。

 そして、8月1日には米沢の春日神社に、学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納しました。
 さらに、藩を立て直すにためには最初に大倹約が必要と決意し、米沢の鎮守である白子神社に納めたのが、写真の倹約誓詞です。
 「連年(れんねん)国家衰微し、民人相泥(たみひとあいなず)み困り候。因って大倹相行い中興仕り度祈願仕候。決断もし相怠るにおいては忽ち神罰(しんばつ)を蒙るべきもの也」と、9月6日、鷹山が自ら筆をとって書いたものです。
 この決意をもって、9月18日に江戸藩邸で大倹約令を発表しますが、それに先立ち鷹山は、13日に江戸家老色部照長と共に再度白子神社に倹約誓詞を納めました。倹約を実施するには重臣の協力が必要だったからです。ところが、この倹約令を国元米沢でも発表するようにと伝えたところ、上杉家の格式が崩れる、重要な件を国元の重臣に相談も無く決めたなどと、国元の重臣達から反対の声が上がりました。
 鷹山は、一族の上杉駿河守勝承にも協力を願い、勝承も11月11日に白子神社に倹約誓詞を書き、鷹山と勝承は国元の重臣あてに、説得の手紙を送りました。
 結局、前藩主の重定の力を借り、12月11日になって、ようやく米沢でも大倹約令が発表されました。
 このように、白子神社に4通(鷹山の2通、色部と上杉勝承の各1通)の倹約誓詞が納められたわけですが、これらは、米沢藩の立て直しに対する鷹山の強い意志を示すと共に、倹約令の実施は、決して順調には進まなかったことを物語る資料でもあります。

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