解体供養碑

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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解体供養碑 金池4丁目

解剖された死刑者の慰霊碑

「解體供養碑」と文字が彫られた長方形の石碑

 今月は、北村公園の東南隅にある解体供養碑を訪ねてみました。
 石碑は高さ1.4メートルの凝灰岩で、正面には「解體供養碑」と刻まれ、現在はっきりとは読みとれませんが、右側面に「明治四年三月十五日」の文字があったという記録があります。
 解体とは江戸の蘭学医・杉田玄白の著わした『解体新書』でも知られるように、「解剖」のことです。つまり解体供養碑とは解剖された人の慰霊のための石碑となります。
 当時は、罪を犯して死刑となった人が解剖されました。明治3年8月、米沢藩は明治政府に、医学研究のため「罪犯刑死之屍」を解剖する願いを申請しています。この願いが許可され、翌4年3月に米沢藩の医師たちによって罪人が解剖され、医師や関係者によって解剖された人の慰霊するため、この石碑が建てられたものと考えられています。
 石碑がこの場所に建てられたのは、最上川(松川)対岸は罪人の首を斬った「闇打場」があった場所で、その「闇打場」で処刑された遺体がこの場所で解剖されたからと思われます。その後、ここに火葬場が建てられ、火葬場移転後は北村公園の一部として整備され、現在にいたっています。
 さて、こうした解剖された死者の霊を慰めるための石碑は米沢に限らず各地にも見られます。岩手県一関市の「豊吉の墓」は、天明5年(1785)に解剖された豊吉を慰霊する石碑で、東北最初の解剖として有名ですが、実は、米沢藩では一関よりも早く解剖が行われていました。
 代々米沢藩のお側医を勤めていた堀内家には、明和元年(1764)に解剖を行った記録が残っています。それには「松原戮人(晒人)ヲサキ親ク関節ヲ見テ」と、米沢藩の処刑場であった松原で死罪人を解剖して関節を見たことを記しています。また安永8年(1779)には内臓まで解剖したとを記しています。日本で最初の解剖は宝暦4年(1754)に山脇東洋が京都で行っていますが、わずか10年後に米沢でも解剖が行われたことになります。
 この解体供養碑は、医学の発展のため解剖された罪人の霊を慰める石碑であるとともに、医学研究に積極的であった米沢の医師たちの意欲や、米沢が医学の先進地であったことを示す石碑でもあります。

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