黒井堰

黒井堰(くろいぜき)
米沢藩士黒井半四郎の一大灌漑事業

今月は、上杉鷹山の藩政改革の時代、水不足に苦しんでいた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)に水を送るため、藩と農民が一体となって作った農業用水路「黒井堰」を紹介します。
堰は上堰と下堰からなり、堰の長さは合わせて約8里(32キロ)と大規模なものでした。このうち上堰は、米沢市窪田の千眼寺(せんげんじ)裏で松川(現在は最上川)の水を堰き上げ、糠野目で松川に大樋を掛け水を渡し、高畠・赤湯方面の水田をうるおしました。
この大工事を計画し、責任者となったのが、黒井半四郎忠寄(くろいはんしろうただより)です。米沢藩の中級家臣団である五十騎組の出身で、幼いころから和算(算術)の勉学に励み、中西流和算の最高免許を受けました。その力が認められ、藩の財政を司る勘定頭に任命され、無駄な出費を削るなど、藩財政の改善につとめました。
半四郎は寛政元年(1789)には藩政の中枢をになう御中之間年寄に昇格しました。藩財政の改善には、支出の削減だけではなく、収入の増大も必要と考え、灌漑用水を整備して米の増収をはかることを計画しました。
寛政6年(1794)に、鍛冶川の水を藤泉村に引く堰を作り、翌七年早々に上堰の工事に着手、松川に大樋を掛け、使われなくなっていた堰跡などを活用して、6月16日に完成しました。この時、藩主治広や前藩主の鷹山が堰まで出向いて新堰の完成を祝い、半四郎の功績をたたえ50石を加増するとともに、新堰の名を黒井堰と命名しました。半四郎の優れた算術や緻密な計画によって成功した堰だったからです。
同8年には松川の水を鶴巻(高畠町福沢)から堰き上げる下堰の工事を始め、翌年に完成しました。さらに、寛政十年には飯豊山に穴堰を通す調査を行い、翌11年に工事を着手しましたが、この年の冬に亡くなりました。53歳でした。
穴堰の工事は半四郎の死後も計画どおり進められ、19年後にようやく完成しました。半四郎の計算どおり、山の両側から掘ったトンネルはわずかのズレで見事に結ばれました。この「飯豊の穴堰」は、現在県の史跡に指定されています。
また、黒井堰は、米沢平野農業水利事業の幹線水路として現在も利用され、松川の水を水田に送り続けています。
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更新日:2024年10月04日