招魂碑

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
招魂碑(しょうこんひ) 丸の内1丁目
戊辰、西南戦争の戦死者を慰霊する

今月は、松岬公園(米沢城跡)の東南隅の高台に建っている大きな石碑「招魂碑」を紹介します。桜の季節には、花見に恰好の場所として、大勢の人で賑わいます。
この場所は、江戸時代には上杉謙信の遺骸(甲胄を着せた状態で、甕に納め漆で密封したと伝えられる)を安置した御堂が建っていた所で、明治になって米沢城跡は公園となり、謙信の遺骸も明治9年に御廟所に移されました。
招魂碑が建てられたのは明治11年4月、戊辰戦争および西南戦争(明治10年)で戦死した郷土の人を慰霊するためのものでした。
石碑は凝灰岩で、高さ約340センチ、一辺143センチのほぼ四角柱の形で、台座(85センチと157センチの2段)を合わせると約5.8トルという、非常に大きな石碑です。斎藤篤信は旧米沢藩士で、戊辰戦争においては隊頭(たいとう)として活躍し、米沢藩の参謀に抜擢され新潟方面で戦いました。また、篤信は興譲館で学び、学問にも優れた人物で、明治12年には三島県令に懇請され、山形県師範学校の初代校長となりました。その後は学習院教授などを務め、教育者として有名です。
篤信は、石碑にあった大きな文字を書くため、普通の筆では小さかったので、ミゴ(稲穂のしん)を束ねたものに軸を付けて特製の筆を作り、家内中で墨をすって墨汁を作り、ようやく書き上げました。その力強い筆の運びには、共に戦った戦友を思う心と、精魂を込めた気迫が感じられます。
この招魂碑には、その後の諸戦争で戦死した将兵の霊も合祀(ごうし)されました。そして、郷土や国に殉じた人の霊を慰めるかのように、今年も桜の花が招魂碑の周りに咲き、穏やかに花見ができる時が永く続くこと見守っているかのようです。
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更新日:2024年10月04日