北山原殉教遺跡

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

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北山原殉教遺跡 金池6丁目

日本でも有数のキリシタン殉教の聖地

木々が生えてる中央に十字架に貼り付けにされたイエスキリストの像とその両脇に1体ずつ宣教師がキリストを見上げている像の写真

 今月は米沢市金池六丁目にある北山原キリシタン殉教の遺跡を訪ねてみました。
 ここ北山原は米沢藩の刑場跡で、今から366年前の寛永5年12月18日(太陽暦では1629年1月12日にあたる)の甘粕右衛門一族らの殉教をはじめとし、米沢の数多くのキリシタンが処刑された場所でもあります。
 日本にキリスト教が伝えられたのは16世紀中ごろですが、徳川幕府は慶長17年(1612)に禁教令を出し、元和8年(1622)には長崎で55人の宣教師・信者を火あぶりに処すなど、徐々に取締りを厳しくしてゆきました。
 米沢藩内にもキリスト教が伝わり信者がいましたが、初代藩主景勝の頃は幕府に対抗する気概もあり、禁教令は布達しましたが取締りは寛大で、幕府へは「当領内には切支丹一人も御座なく候」と答えたと伝えられます。
 しかし、二代藩主定勝の頃になると幕府の切支丹弾圧はいっそう厳しくなり、寛永五年には米沢藩でも取調べと弾圧が始まったのでした。当時会津若松に潜んでいたポーロ神父は、ローマに送った報告書で、米沢での弾圧や処刑の様子を次のように伝えています。「甘粕右衛門(洗礼名はルイス)は米沢藩の上級家臣で、藩では甘粕らの信徒に改宗するように説得しましたが、彼らは改宗に応ぜず殉教を望みました。最初の殉教は甘粕の一族で、右衛門、右衛門の2人の子とその妻子、甘粕家に使えた者などが、聖母マリアの旗を先頭に自宅から北山原まで歩きました。子供は3歳のジェスタ、1歳のルチアという幼子でした。降り積もった雪の中で処刑が行われ、その首は見せしめのため、山形へ向かう街道脇に晒されました。
 甘粕一族に続き、ほかの信者も次々と殉教し、その数は数日で57人に及びました。また、南原の糠山や花沢などでも下級武士の家族や百姓などが殉教を望み処刑されました。
 その後、寛文9年(1669)に米沢藩の刑場が松原に移り、北山原はただの荒地となり、厳しい取締りで信者は絶え、北山原の殉教は次第に忘れ去られた事件となりました。
 昭和3年に舘山の教会に赴任したシュインテク神父は、ローマへの報告書を元に調査を行い、六地蔵の石碑が立っている荒地が殉教の遺跡であることを確認しました。翌4年、有志の手により整備され、十字架が建てられ、その後ドイツからキリスト・マリア・ヨハネの像が贈られました。
 最近では日本でも有数の殉教の聖地として注目され、訪れる人も多くなっています。

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