遠山覚範寺跡

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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遠山覚範寺跡 遠山

周りが木々や緑に囲まれた場所で、観音石仏や石碑が並んでいる遠山覚範寺跡の写真

遠山覚範寺跡

木々が植えられた一角にに石灯篭などが立っている高畠町夏刈にある資福寺跡の写真

高畠町夏刈にある資福寺跡

両側に石灯篭があり、石柵でかこまれた場所に球形や笠型の石が積み重なって作られた供養塔がある輝宗公の墓の写真

資福寺跡から少し南にある輝宗公の墓

 今月は、米沢市遠山町の覚範寺跡を訪ねてみました。「独眼竜」の異名をもつ戦国の名将伊達政宗が、父輝宗の菩提を弔うために建てた覚範寺があった場所です。
 伊達輝宗は天正12年(1584)に家督を政宗にゆずって舘山に隠居しましたが、翌13年には政宗と共に福島方面に出陣し、10月8日に二本松城主畠山義継に謀られ殺されました。和睦のお礼に来た義継が心をひるがえし、見送りに出た輝宗を捕らえ二本松城へ連れ去ろうとしたため、輝宗は伊達家の名誉を思い義継を鉄砲で打ち殺すよう命じ、義継と共に死んだと伝えられています。
 輝宗の遺骸は翌九日に信夫郡佐原村(福島市)の寿徳寺で火葬に付され、遺骨は夏刈(高畠町)の資福寺に埋葬されました。法名は性山受心大居士覚範寺殿。輝宗の腹心であつた遠藤基信を含め4人が殉死しました。
 政宗は翌14年に二本松城を攻め取り、輝宗の菩提寺として米沢城の西方、斜平山のふもと遠山村に覚範寺を建てたのです。
 覚範寺の住職には、政宗の師匠であり、臨済宗の名僧として知られる資福寺の虎哉和尚(こさいおしょう)を迎えました。天正15年元旦、虎哉は新築まもない覚範寺で、次の七言絶句を詠んで新しい禅道場の前途を祝しています。

  •  雪堆遍満美哉輪
  •  人亦新兮境亦新
  •  臨済宗風従此起
  •  宝華楼閣百花春

 天正19年、伊達政宗は豊臣秀吉の命によって岩出山へ移り、覚範寺も米沢にあった伊達ゆかりの寺社と共に岩出山、さらに仙台へ移りました。現在は仙台市青葉区北山にあり、北山五山の一つとして有名です。
 一方、遠山の覚範寺は廃寺となって境内は山林や畑となり、わずかに覚盤寺・覚盤寺門前と小字地名を残すだけとなりました。
 昭和62、63年に米沢市の中世を解明するため覚範寺跡の発掘調査が行われ、松林の中から、輝宗や殉死者の霊を祀ったと考えられる御堂の礎石や古銭・陶器などが発見されました。また、平たい小石にお経を一字ずつ書き写した「一字一石経(いちじいっせききょう)」も発見されました。見つかった石は1367点にのぼり、中には虎哉和尚の筆と思われるものもありました。
 遠山覚範寺跡は、現在は上長井史跡保存会によって整備され、時おり仙台の覚範寺などからも参詣者が訪れています。

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