遠山覚範寺跡

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
遠山覚範寺跡 遠山

遠山覚範寺跡

高畠町夏刈にある資福寺跡

資福寺跡から少し南にある輝宗公の墓
今月は、米沢市遠山町の覚範寺跡を訪ねてみました。「独眼竜」の異名をもつ戦国の名将伊達政宗が、父輝宗の菩提を弔うために建てた覚範寺があった場所です。
伊達輝宗は天正12年(1584)に家督を政宗にゆずって舘山に隠居しましたが、翌13年には政宗と共に福島方面に出陣し、10月8日に二本松城主畠山義継に謀られ殺されました。和睦のお礼に来た義継が心をひるがえし、見送りに出た輝宗を捕らえ二本松城へ連れ去ろうとしたため、輝宗は伊達家の名誉を思い義継を鉄砲で打ち殺すよう命じ、義継と共に死んだと伝えられています。
輝宗の遺骸は翌九日に信夫郡佐原村(福島市)の寿徳寺で火葬に付され、遺骨は夏刈(高畠町)の資福寺に埋葬されました。法名は性山受心大居士覚範寺殿。輝宗の腹心であつた遠藤基信を含め4人が殉死しました。
政宗は翌14年に二本松城を攻め取り、輝宗の菩提寺として米沢城の西方、斜平山のふもと遠山村に覚範寺を建てたのです。
覚範寺の住職には、政宗の師匠であり、臨済宗の名僧として知られる資福寺の虎哉和尚(こさいおしょう)を迎えました。天正15年元旦、虎哉は新築まもない覚範寺で、次の七言絶句を詠んで新しい禅道場の前途を祝しています。
- 雪堆遍満美哉輪
- 人亦新兮境亦新
- 臨済宗風従此起
- 宝華楼閣百花春
天正19年、伊達政宗は豊臣秀吉の命によって岩出山へ移り、覚範寺も米沢にあった伊達ゆかりの寺社と共に岩出山、さらに仙台へ移りました。現在は仙台市青葉区北山にあり、北山五山の一つとして有名です。
一方、遠山の覚範寺は廃寺となって境内は山林や畑となり、わずかに覚盤寺・覚盤寺門前と小字地名を残すだけとなりました。
昭和62、63年に米沢市の中世を解明するため覚範寺跡の発掘調査が行われ、松林の中から、輝宗や殉死者の霊を祀ったと考えられる御堂の礎石や古銭・陶器などが発見されました。また、平たい小石にお経を一字ずつ書き写した「一字一石経(いちじいっせききょう)」も発見されました。見つかった石は1367点にのぼり、中には虎哉和尚の筆と思われるものもありました。
遠山覚範寺跡は、現在は上長井史跡保存会によって整備され、時おり仙台の覚範寺などからも参詣者が訪れています。
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更新日:2024年10月04日