人繊工業発祥の地

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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人繊工業発祥之地 舘山

化学繊維工業発祥の地

木々を背に中央に「人繊工業発祥之地」と彫られた草履型の記念碑が立っている写真

 舘山公園は春は桜、夏は夜景を楽しむ人達でにぎわいますが、今月は同公園の展望台の一角に建っている「人繊工業発祥之地」の記念碑を紹介します。
 この石碑は、昭和46年6月に『帝人』の創立50周年記念事業の一つとして、帝人の興った工場跡地(現在の三中の敷地)を一望できる舘山公園に建立したものです。米沢は帝人および日本の人造絹糸(人工的に造る絹に似せた繊維・レーヨン)、化学繊維工業の発祥地であることを示しています。
 人造絹糸を作り出す技術はヨーロッパで開発され、その製品は明治末には日本に輸入されるようになりました。こうした中、米沢高等工業学校(現、山大工学部)の講師に赴任した秦逸三(はたいつぞう)は、ビスコース(木材パルプを苛性ソーダで処理し、これに二硫化炭素を加えたもの)から人造絹糸を作る研究を進め、大正2年の開校記念日には実験を一般に公開し、「木から絹ができる」と人々を驚かせました。
 大正4年、研究を援助してきた鈴木商店の子会社東工業が、閉鎖されていた館山の米沢製糸場跡を買い取り、秦を工場長として人絹の生産を始めました。当初は、糸にツヤがなかったり、ケバができたりと苦労しましたが、折しも起きた第一次大戦で、ヨーロッパからの人絹輸入が減少したことに助けられ生産を伸ばし、同7年6月に東工業から独立、帝国人造絹糸株式会社となりました。
 この後の帝国人絹は、海外からの技術導入、人絹の織物への利用拡大などを背景に、大正10年に広島工場、昭和2年に岩国工場の操業を開始するなど業績を伸ばしました。
 館山の米沢工場は、当初は男子4名、女子10名程でしたが、大正13年の従業員数は314名に増え、米沢で最大の工場となりました。同15年には市と共同で上水道を設置し、米沢における水道の始まりとしても注目されます。
 ところが、昭和2年の金融恐慌で破産した親会社鈴木商店の負債や、昭和4年に始まる世界恐慌などで経営が圧迫され、また最新鋭の岩国工場とくらべ効率が悪く、改良しようにも敷地が狭く、廃水・電力などに問題を抱えていた米沢工場が整理の対象となり、昭和6年11月に閉鎖されました。
 工場跡は売却後そのまま放置され、雑木が生い茂る荒地となりましたが、昭和55年に統合三中が開校しました。三中生徒が学ぶ校舎・グラウンドは、日本初の化学繊維工場があった歴史を秘めた場所です。

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