籍田の遺跡

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪(城下町ふらり歴史探訪のページへリンク)

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籍田の遺跡 遠山町

勤労を尊ぶ鷹山公の心

「上杉鷹山公籍田之遺跡」と彫られた石碑が建てられ、奥に家が立ち並んでいる写真
「鷹山公籍田の礼を行った地」と書かれた白い木の板が建てられている写真

 上杉鷹山が農業・耕作を励ますため「籍田の礼」(せきでんのれい)を行ったことは有名ですが、今月は米沢市遠山町にあるその遺跡を訪ねてみました。
 「籍田」とは古代中国の周の国で行われた儀礼で、天子(君主)が国内の農事を励ますため、自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に備えたことから始まったものです。
 この故事を学んでいた鷹山は、凶作などで困窮し、働く意欲を失ないかけていた米沢藩の農民を奮起させようと、安永元年(1772)自ら籍田の礼を行うことを決心しました。鷹山22歳、明和6年の初入部に続く二度目の米沢の春でした。その担当者には近習(側に仕える役目)の佐藤文四郎を任命し、田は米沢城の西南、遠山村の四反余(約40アール)を選び、準備が進められました。
 3月26日の朝、鷹山は家臣を連れ白子・春日両神社にお参りしたのち、初めに鷹山公が自ら3鍬を入れ、続いて奉行3人が9鍬ずつ、以下佐藤文四郎・郡奉行などが45鍬、代官などが72鍬、下役が99鍬、遠山村の肝煎(きもいり=村役人)と農民が300鍬を入れ、全員で神社からの神酒をいただいて終了しました。
 収穫された米は先祖の霊を祀る御堂と白子・春日両神社に備えられ、余った米は不足ぎみの下級家臣への扶持米(ふちまい)に当てられました。
 鷹山が率先して農事を行ったことは、農業の尊さを領民に示すとともに、武士が農事にかかわることを恥とする風潮も一新し、翌年から家臣団による新田開発が始まりました。細井平洲先生はこの籍田の礼のことを聞き、「万民の安利を思い南郊の汚泥に御足をけがし鋤鍬を取給ひしことは希にみる美事であり、六十余州の手本なるべし(日本各地の藩の模範となる)」と、褒めたたえています。
 以後、籍田の礼は藩主が米沢に在国の年の恒例となり、歴代藩主により続けられました。
 明治35年、鷹山の遺徳を後世に伝えようと、「上杉鷹山公籍田之遺跡」と記した石碑が現在地に建てられました。書は米沢出身の農商務大臣平田東助。大正4年には、上杉家から上杉神社に田地が寄付され、神社の神田となりました。 現在、籍田の遺跡の周囲は、住宅地となって新しい家が建ち並び、ごく僅かな田を残すだけとなりましたが、傍らに建つ石碑と、上杉神社が主催する田植祭・抜穂(ぬきほ=収穫)祭が、鷹山の領民を思いやる気持、農業を尊ぶ心を今に伝えています。

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