保呂羽堂

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
保呂羽堂 米沢市窪田町窪田
五穀豊穣・防虫の神

保呂羽堂

雉子の絵馬

12月4日「裸の餅搗き」
今月は、毎年12月4日に行われる「裸の餅搗き」で有名な、市内窪田の千眼寺境内(せんげんじけいだい)祀られる保呂羽堂(ほろわどう)を訪ねてみました。
「保呂羽」とは変わった名ですが、これは、秋田県平鹿郡大森町の保呂羽山(483メートル)に鎮座する保呂羽山波宇志別神社に由来し、米沢藩重臣の色部氏(菩提寺が千眼寺)が分霊してきたことによります。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により上杉景勝は出羽国の検地を行い、家臣の色部長真(いろべながざね)は秋田の大森城に留まり、年貢の徴収や治安の維持にあたりました。色部長真はこの大森在城中に、保呂羽山の神を深く信仰し、自分の領地である越後国の平林城(新潟県神林村)に分霊しました。その後、上杉氏の会津・米沢への移動に伴い、色部氏や千眼寺・保呂羽堂も米沢に移り、現在に至っています。
言い伝えでは、戦いの途中に道に迷った色部氏が、雉子に先導されて助かり、この雉子こそ保呂羽山の神の使いであったといいます。このため、保呂羽堂には美しい雉子(きじ)の絵馬が掲げられ、窪田地区には雉子を食べてはいけないと伝える家も多く残っています。
餅搗きの由来は、寛永18年(1641)、田畑に病害虫がひろがり被害が心配されましたが、神のお告げにより保呂羽堂の縁の下の土を田畑に撒いたところ、虫が逃げ、作物が生き返りました。そこで村人は感謝の気持ちと来年の豊作を願って餅を搗き、保呂羽堂にそな供えたのが始まりで、以来毎年おこなわれるようになったと伝えられています。
餅搗きは、近くの若者たちが半裸の姿になり、千本杵を持ち、7、8人程で臼を囲み、ねり唄・つき唄・あげ唄を唄いながら搗きあげる勇壮なものです。搗きあげた餅は参詣の人達にも振る舞われます。あげ唄と共に天井高く餅を突き上げ、天井のススがついた餅ほどご利益があるといいます。
なお、秋田の保呂羽山波宇志別神社は、湯立神事を残す霜月神楽(国指定重要無形文化財)が有名ですが、米沢の保呂羽堂と同様に病疫退散と豊作を願う、八木沢獅子舞(県指定無形文化財)も行われています。
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更新日:2024年12月04日