御廟所

更新日:2024年03月29日

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城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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上杉家廟所 米沢市御廟一丁目5-32

歴代米沢藩主の墓所

奥には木々が雄々しく育ちその前には歴代藩主の廟が複数並びそれと同様に手前に灯篭が並んでいる情景写真

杉木立の中に並ぶ歴代藩主の廟

上杉家御廟所と家紋が書かれた提灯が2張り設置された門の奥に碑がある上杉謙信廟の写真

正面中央の上杉謙信廟

 前回の普門院に続いて、同じく国の史跡に指定されている御廟所を訪ねてみました。
 正式な名称は米沢藩主上杉家墓所。その名のとおり、歴代の米沢藩主の墓(廟)が並び、市民からは御霊屋(おたまや)と呼ばれ親しまれています。正面中央の奥は、戦国の雄将で藩祖と尊敬される上杉謙信の遺骸を安置する廟(ひ宮)です。
 言い伝えでは、謙信の遺骸は、甲胄を着せたまま漆で固めて甕に密閉し、埋葬されたと言われています。上杉氏の移動にともない、越後春日山から会津若松、さらに米沢に運ばれ、江戸時代は米沢城本丸に手厚く祀られていましたが、明治9年にこの御廟所に移されました。
 この御廟所の地は、初めは謙信の遺骸の避難場所でしたが、元和9年(1624)に初代藩主の景勝が亡くなり、藩主の墓所となりました。遺体は火葬にされ、遺骨は高野山に納め、ここには灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋(いりおもやしき)式の廟屋を建てました。
 以後、七代藩主の宗房まで、同じ形式で、左右交互に廟が造られました。景勝の廟屋は約370年前の建物となります。
 向かって左側、九代藩主治憲(鷹山)の廟の左となり一段下ったところに、やや小さな廟があります。これは鷹山の長男顕孝(母はお豊の方)の廟です。
 顕孝は十代藩主治広の世子(跡継ぎ)となり、次期藩主として期待されていましたが、19歳で病気のため亡くなりました。鷹山はじめ藩内はたいそう悲しみ、これまで世子は林泉寺に墓がつくられていましたが、顕孝の場合は特別に歴代藩主の墓所に葬られました。
 また、この時から火葬して遺骨を高野山に納める慣習が改まり、顕孝は土葬となりました。
 なぜ土葬に変わったかは不明ですが、鷹山が、わが子を焼くには忍びない、と改められたとも伝えられています。以後、八代藩主の重定から治憲・治広・斉定と土葬となり、廟屋は方形(ほうぎょう)造りと変わりました。
 杉木立のなかに整然と並ぶ廟屋は、名門上杉家や米沢藩の歴史を、静かに語りかけてくれます。

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