直江石提

「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。
直江石堤 米沢市大字赤崩
治水の大切さを今に伝える



林泉寺にある直江兼続公夫妻の墓
(雪囲いがある)
今月は、松川(最上川)の上流、海老ケ沢(えびがさわ)橋の上・下流につらなる直江石堤を訪ねてみました。上杉景勝の重臣直江兼続の計画によって築かれた石積みの堤防で、地名をとり谷地河原堤防(やちがわらていぼう)とも呼ばれています。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、上杉景勝は西軍に加担したことにより、翌6年8月に会津120万石から米沢30万石にに領地を削られました。このため米沢は上杉氏の本城となり、大勢の家臣団が移り住み、直江兼続の指揮で新たな城下町作りが行われました。
兼続は元の城下を拡げ、家臣団の屋敷割りと町割りを行い、城下に収容しきれなかった下級武士を郊外の南原・東原(山上・花沢)に配置し、荒地の開拓にあたらせました。一方、用水・治水に心を配り、米沢城下の用水となる御入水堰、猿尾堰、帯刀堰などを開削し、洪水から米沢城下を守るため松川に谷地河原堤防(直江石堤)と蛇土手(へびどて)を築きました。
この直江石堤は、兼続みずから赤崩山(あかくずれやま)に登り、米沢城や松川の地形を見渡し、洪水を防ぐにはどうしてもここに堤防を築かなくてはならないと決心し、大規模な築堤を計画したものと伝えられています。
兼続の築いた堤防は、長い年月の間に何度か大雨によって破損し、その度に藩士のお手伝いなどによって修復されましたが、なかでも、文化9年(1812)の工事は、延べ9,727人の藩士を動員した大工事でした。
現在、長さ1.2キロにわたって石堤が残り、昭和61年に市の史跡に指定されました。石堤の断面は、上辺が約5メートル、下辺約9メートル、高さ約2メートルの台形で、海老ケ沢橋の架け替え工事に際し石堤の一部を切り崩したところ堤の中心部から直径1ートルを越す巨石が次々と出てきて、人々を驚かせました。やや黒ずんだ大きな河原石を敷き詰めた石堤の上を歩くと、機械のなかったころの大工事に驚きを覚え、米沢を築いた先人の苦労が伝わってきます。そして、治水の大切さを<教えてくれる史跡でもあります。
昭和58年に行われた石堤近くの最上川護岸工事では、先人の業績を称えるとともに、景観を考え、表面を石積風に見せる工法が採用されました。また、石堤のある河川敷は公園に整備され、今年6月15日に「直江堤公園」として開放され、市民の憩いの場所となりました。
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更新日:2024年10月04日