平田 東助

更新日:2024年03月29日

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平田 東助(1849-1925)

エピソード1 岩倉使節団に随行し、ドイツに留学

 平田東助は、嘉永2年(1849)、米沢藩医・伊東昇迪[いとうしょうてき]の次男として、信夫町に生まれました。伊東家は、代々藩医の家系で、父昇迪は長崎留学でシーボルトに学んだ蘭学医でした。甥には建築学者の伊東忠太がいます。8歳で藩医平田亮伯[りょうはく]の養子となり、平田姓を名乗ります。
 藩校興譲館で学んだ後、江戸へ遊学した東助は、明治4年には岩倉使節団に随行、ドイツへ留学します。ドイツでは、ベルリン大学などで国法学・財政学・政治学・国際公法などを研究してドクトル=フィロソフィの称号を得ました。

エピソード2 産業組合を創設

 明治9年に帰国すると、明治政府の官僚として法制度の整備にあたり、とりわけドイツの制度を取り入れた信用組合法の立案に尽力しました。この法案は不成立に終わったものの、後に産業組合法として結実、数多くの組合が結成されるとともに、農民の経済的な自立と自主経営の組織化を促し、今日の農業協同組合(JA)の礎となりました。

エピソード3 山形県初の大臣に

 明治34年、桂太郎内閣の農商務大臣として初入閣し、山形県出身者で初めての大臣となりました。以後、同41年の第2次桂内閣で内務大臣、大正11年には天皇を補佐する内大臣となり、同14年に亡くなる直前まで務めました。この間、首相就任を要請されたこともありましたが、健康上の理由から固辞しています。

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