宮島 誠一郎

更新日:2024年03月29日

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宮島 誠一郎(1838-1911)~幕末に周旋方として活躍し、「戊辰日記」を残した米沢藩士~

エピソード1 米沢藩の周旋方

 宮島誠一郎は、天保9年(1838)、藩の右筆[ゆうひつ]を務める一郎左衛門吉利の長男として、米沢城下猪苗代片町(現西大通2丁目)に生まれました。誠一郎は、幼い頃より勉学に励み、藩校興譲館では秀逸生に5回も選ばれた秀才で、後に興譲館で教鞭[きょうべん]をとっています。
 文久3年(1863)、藩主斉憲[なりのり]の上洛に同行した誠一郎は、諸藩の学者や識者と親交を結び、その後は幕末の江戸や京において藩の周旋方として情報収集や諸藩との折衝にあたります。幕末の動乱の最中、世情を正しく認識し諸藩との連携を密にすることは、藩の行末を左右する重要なことでした。誠一郎は周旋方として活躍し、諸藩の藩士との交流を深め、幕臣の勝海舟や長州藩の広沢真臣[まさおみ]などとも接触しています。

エピソード2 戊辰戦争と「戊辰日記」

 慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、米沢藩は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と戦うことになります。誠一郎は最後までこの戦いを避けるために奔走[ほんそう]し、敗戦後も藩の使者として、終戦処理に尽力しました。
 誠一郎は、若い頃から非常に筆まめで、生涯にわたってほぼ一貫して日記を付けています。とりわけ、慶応4年の「戊辰日記」は質量ともに最も充実し、戊辰戦争前後の米沢藩を中心とした奥羽諸藩の動向が誠一郎本人の見聞や関係者からの風評などを交えて臨場感溢[あふ]れる文章で綴られています。
 後年、「戊辰日記」は誠一郎自身と弟季四郎の手により清書されて全12巻にまとめられますが、戊辰戦争の経験は、誠一郎のその後の人生に大きな影響を及ぼすものでした。

エピソード3 明治新政府への出仕と新国家構想

 宮島誠一郎は明治になると、明治新政府の待詔院[たいしょういん]下局に出仕し、以後新政府の官僚として従事することになります。米沢藩の周旋方として培った幅広い人脈を存分に活かし、政府の高官たちとも渡り合いました。
 明治5年(1872)、誠一郎は「立国憲議」を建議します。それは、政府内で最も早く立憲政体(憲法により運営される政治制度)樹立の必要性を説き、国家を従来の藩よりも優越するものとして捉とらえる新国家の構想でした。その後、日本が近代国家として歩んでいく中で、誠一郎は政府の指針に沿って立憲政体樹立や内務省設立・服制制定などの近代化政策を推し進めていきます。
 また、清国公使の何如璋[かじょしょう]・黎庶昌[れいしょしょう]と詩文や酒を酌[く]み交わすことで交流し、当時最も中国問題に精通する人物としても知られていました。

エピソード4 「戊辰雪冤[ぼしんせつえん]」の道

 誠一郎は新政府での新国家建設への使命感と併せて、常に「戊辰雪冤」という意識を持ち続けていました。「戊辰雪冤」とは、戊辰戦争で着せられた米沢藩の汚名を雪ぐことであり、誠一郎の行動を生涯にわたって規定するものとなります。その中で最も力を入れたのは、米沢藩出身の人材を新政府へと送り込むことでした。藩の重臣であった千坂高雅[ちさかたかまさ]の政府出仕の道筋を付け、その後も米沢からは政府官僚や海軍軍人など、近代日本を支える有為の人材を数多く輩出することになります。誠一郎は、「戊辰雪冤」の道を、米沢出身者が新政府で活躍することによって果たそうとしたのです。
 新政府で国家と米沢のために尽力し続けた誠一郎は、明治44年に74年の生涯を閉じました。

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