雲井 龍雄

更新日:2024年03月29日

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雲井 龍雄(1844-1870)~稀代の詩人であり、明治維新で活躍した米沢藩士~

エピソード1 幕末の奔走と「討薩檄[とうさつげき]」

 雲井龍雄[くもいたつお]は、天保15年(1844)、米沢藩士中島総右衛門の次男として袋町(現松が岬二丁目)に生まれ、のちに小島家の養子となり小島龍三郎と称しました。「雲井龍雄」は、慶応4年(1868)頃から晩年にかけて使用した仮の名前です。その他にも遠山翠[みどり]、桂香逸[こういつ]などの名前を使用して活動していました。
 龍雄は、幼い頃より秀才の誉れ高く、藩校興譲館では抜群の成績を修めます。また、詩作や文才に優れ、その作品はのちに多くの人々に影響を与えました。
 慶応元年(1865)、龍雄は藩命により江戸に上ると、安井息軒[やすいそっけん]に入門して全国の英才たちと学び、京都では米沢藩の探索方として活躍しました。
 さらに藩の命で全国を奔走しますが、その中で龍雄を有名にしたのは、戊辰戦争の最中の慶応4年に起草した「討薩檄」でした。この檄文は奥羽越列藩同盟の正統性を主張し、薩摩を「薩賊[さつぞく]」として痛烈に批判、稀代の名文といわれ、列藩同盟諸藩の志気を大いに鼓舞するものとなりました。

エピソード2 新政府転覆を図った罪で刑死、後年米沢に移葬

 明治新政府が樹立されると、龍雄は集議院に出仕しますが、その激しい気性から孤立し、わずか一月余りで去ることになります。その後、不平士族を扇動して政府の転覆を図った「朝憲紊乱罪[ちょうけんびらんざい]」により、明治3年に東京小伝馬町牢屋で処刑されました。27歳という若さでした。
 龍雄の頭部は梟首[きょうしゅ](さらし首)された小塚原の回向院に墓石もなく埋められますが、明治16年に米沢の有志により谷中天王寺に埋葬、昭和5年には60年忌法要で米沢の常安寺に移葬されました。

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