伊佐早 謙

更新日:2024年03月29日

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伊佐早 謙(1858-1930)

上杉家記録編纂所総裁を務め、県史編纂を担うなど山形の歴史研究の礎を築いた郷土史家

 伊佐早謙[いさはやけん]は、米沢城下上花沢信濃町の米沢藩士の家に生まれました。興譲館提学[ていがく]であった片山弦斎[かたやまげんさい]の門に入り漢学を修め、さらに独学で国史などを学びました。明治7年からは置賜地方の小中学校の教員となり、明治14年には斎藤篤信[さいとうあつのぶ]が校長を務めた山形師範学校でも教鞭[きょうべん]を執っています。優れた教育者であり、教え子には東京府知事を務めた宇佐美勝夫[うさみかつお]や米沢市長となった登坂又蔵[のぼりさかまたぞう]らがいました。
 明治23年、上杉家記録編纂所総裁となります。米沢藩家臣団に残された古文書の収集や全国各地の史料採収を精力的に行い、米沢藩・上杉家の歴史研究に力を注ぎました。調査研究の成果は、「上杉家記」・「奥羽編年史料」をはじめとした膨大な著書や編集史料にまとめられ、現在でも米沢の歴史研究における基本文献となっています。最初の『山形県史』の編纂主任にも任じられ、県史編纂にも尽力しました。また、自らの蔵書を「林泉文庫」と称して文庫を設立し、数多くの古文書・書籍などを収集しました。これらの功績から、謙は「近代山形最初の郷土史家」と評されています。

米沢図書館設立に尽力第2代図書館長となり沖縄の歴史資料を収集、数多くの記念碑建立を手掛ける

 明治40年、伊佐早謙はのちに初代図書館長となる松山亮らとともに米沢に図書館を設立するため「図書館財団設立趣意書」をまとめ、有志の賛同を求めて寄付を募りました。翌年には財団法人米沢図書館が設立され、明治42年に法泉寺境内に米沢図書館が開館しました。米沢図書館には藩校興譲館伝来の貴重な蔵書が引き継がれ、現在の市立米沢図書館(ナセBA)へとつながっていきます。大正元年、謙は第2代図書館長となり、昭和5年に亡くなる直前まで務めました。
 大正13年、最後の米沢藩主で2代沖縄県令を務めた上杉茂憲[もちのり]に関する歴史調査のため謙は沖縄へと赴きます。この時に収集した資料には貴重な琉球王朝に関するものも含まれ、戦災で数多くの歴史資料が焼失した沖縄の貴重な資料が奇しくも米沢の地で伝えられることになりました。また、謙は漢学に秀で、米沢市内を中心に数多くの記念碑の撰文[せんぶん]を手掛けています。法泉寺境内の「創立米沢図書館碑」や松が岬公園内の「甘棠[かんとう]之碑(松岬公園碑)」はとりわけ有名であり、謙の思いと共に米沢の歴史を伝えています。

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