小田切 万寿之助
小田切 万寿之助(1868 - 1934)
米沢藩中級家臣の家に生まれ、支那語を学んで上海総領事などを務めた外交官
小田切万寿之助[おだぎりますのすけ]は、慶応4年(1868)に米沢藩の中級家臣である与板組の小田切盛徳[せいとく]の長男として生まれました。父盛徳は、明治4年に司法省へと出仕し、のちに元老院少書記官を務めるなど明治新政府の官僚として活躍し、宮島誠一郎らと上杉家相談人を務めた米沢の有力者でした。
万寿之助は米沢で生まれ、父の上京により東京で幼少期を過ごし、青年期には宮島誠一郎の息子大八[だいはち]らと興亜会支那語[こうあかいしなご]学校・東京外国語学校で支那語(中国語)を学びました。明治17年、外務省留学生として清[しん]国(現中国)北京、のちに天津[てんしん]に留学しました。明治20年に朝鮮国仁川[いんちょん]領事館の書記生に任じられ、明治23年には京城[けいじょう]公使館在勤となりました。朝鮮国在勤中には、著書『朝鮮』を執筆しています。
明治24年に米国のサンフランシスコ、次いでニューヨーク在勤となり、明治29年からは二等領事となって清国杭州[こうしゅう]在勤となりました。杭州領事として日清講和条約に伴う困難な交渉にあたり、翌年の明治30年に上海領事となりました。上海在勤中、清国の実権を握る西太后[せいたいごう]に直言したため逮捕状の出ていた官僚の文廷式[ぶんていしき]の日本亡命を斡旋します。また、上海鉄路大臣とのパイプを生かした情報入手により北清事変の暴動波及を止めるなど、外交官として日清戦争後の不安定な清国にあって国内の秩序維持に尽力しました。明治35年には上海総領事に昇任し、明治38年に外務省を退官するまで務めました。
元外交官であり、横浜正金銀行重役として中国で活躍し、近代日本の発展に貢献
上海総領事時代の小田切万寿之助は、日清通商航海条約改訂の交渉にあたっています。さらに日本政府による湖北省大冶鉄山[だいやてつざん]の鉄鉱石採掘に関する借款[しゃっかん](政府間で行われる国際的な金銭貸借のこと)の成立にも携わります。これにより、官営八幡[かんえいやわた]製鉄所(福岡県北九州市)の鉄鋼生産が本格化し、近代日本の重工業発展の契機となりました。その後も日本による対中国借款は続き、日本の中国への経済進出は拡大していきます。
明治38年、外務省を退職した万寿之助は、横浜正金銀行に入行します。横浜正金銀行は外国貿易を専門とする政府系特殊金融機関であり、外国為替売買や資本輸出入などを業務としていました。万寿之助は同行の顧問となり、翌年には取締役となって満州統括店の監理を任されます。明治40年からは林権助[ごんすけ]駐清公使の要請により北京駐在となり、日本の対中国借款の交渉に携わりました。
大正6年、万寿之助は三菱財閥の岩崎久弥の代理人として、中華民国総統府顧問を務めたモリソンが蒐集[しゅうしゅう]したアジア文庫購入の交渉にあたっています。アジア文庫は、現在の東洋学専門図書館である東洋文庫(東京都文京区)の礎[いしずえ]となりました。また、自作の漢詩集『銀台遺稿[ぎんだいいこう]』を出版するなど、詩文にも親しんでいました。
昭和9年、万寿之助は67歳で亡くなり、東京都府中市の多磨霊園に葬られました。なお、息子の武林[たけしげ]は日本銀行理事や日本貯蓄銀行頭取を務めた銀行家で財界人としても活躍しています。
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更新日:2024年03月29日