八木 朋直

更新日:2024年10月31日

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八木 朋直(1841 – 1929)

米沢で和算を極め、新潟県会計課長・第四国立銀行頭取などを務めた元米沢藩士

八木朋直[やぎともなお]は、天保12年(1841)に米沢藩下級藩士の金子文弥の次男として南原石垣町に生まれ、のちに八木姓を名乗ります。

朋直は、幼少の頃から算術の才が際立っていたといわれ、米沢藩士で和算家であった今井直方に師事して関流和算を極めたといいます。文久3年(1863)に藩に出仕すると、和算の才を活かして会計方・勘定役として活躍しました。
幕末維新期の戊辰戦争時には、朋直は新潟や会津を転戦します。この時期には、米沢藩が一時的に新潟の管理を任されていました。戊辰戦争終結後、朋直は新潟へと赴き、明治2年に越後府租税会計方に任じられます。その後、水原県・新潟県に出仕し、明治7年には新潟県会計課長となりました。
明治5年施行の国立銀行条例により、明治6年、新潟県に第四国立銀行(現第四銀行)が創立されました。しかし、間もなく経営危機に陥ります。明治9年、新潟県の会計責任者として銀行と関係の深かった朋直が入行し、2代目頭取に就任しました。朋直は、商業金融の重視と預金銀行を目指した経営方針を打ち出し、景気回復も相まって、銀行は経営危機を脱します。その後も銀行経営のトップとして約20年間にわたり第四国立銀行の舵取りを担いました。

初代萬代橋を架橋し、新潟市長を務めて新潟市の近代化に貢献した米沢出身の財界人・政治家

八木朋直の功績で最も有名なのは初代萬代橋の建設でしょう。萬代橋は信濃川に架かる橋で、新潟日日[にちにち]新聞社社長の内山信太郎が計画し、朋直は建設費全額を出資しました。明治19年に竣工した萬代橋は長さ782メートルと当時日本一の長さを誇る橋でした。朋直は萬代橋の架橋には並々ならぬ思い入れがあったようで、自身を「架橋翁」と称しています。萬代橋は交通の発展と新潟市の近代化に貢献しました。

なお、現在の3代目萬代橋は国の重要文化財となり、新潟県のシンボルとして親しまれています。また、明治32年には第4代新潟市長に就任し、市政初期のトップとして行政の舵取りを担いました。

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