斎藤 篤信

更新日:2024年03月29日

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斎藤 篤信(1825 – 1891)

藩校興譲館で教鞭を執り、幕末の屋代郷騒動・戊辰戦争で活躍した米沢藩士

 斎藤篤信[さいとうあつのぶ]は、文政8年(1825)に米沢藩士斎藤庸信[つねのぶ]の嫡男として、米沢城下の花岡町に生まれました。斎藤家は最上級家臣の侍組に属し、父庸信は米沢新田藩家老など要職を歴任した重臣でした。篤信は幼い頃から勉学を好み、書道にも優れていたといわれます。 嘉永3年(1850)に藩校興譲館勤学兼助読となり、その後は屋代郷[やしろごう](現高畠町)の統治にあたる糠野目砦将[ぬかのめさいしょう]・高畠砦将などを務め、文久3年(1863)の屋代郷騒動に際してはその鎮圧にあたりました。慶応元年(1865)には藩主上杉斉憲[なりのり]の奥取次[おくとりつぎ]となって藩主の側近として仕えました。
 戊辰戦争時には、甘糟継成[あまかすつぐしげ]とともに軍参謀に任じられ、奥羽越列藩同盟の一員として越後に出征して新政府軍と戦い、戦功を上げますが、米沢藩は降伏します。敗戦後は、奥羽諸藩の戦争終結のために奔走し、とりわけ会津藩降伏の周旋[しゅうせん]に力を尽くしました。この間、新政府軍の板垣退助・黒田清隆・西郷隆盛らと面会し、堂々と意見を述べたと伝わります。
戊辰戦争終結後の明治2年からは新政府の待詔院[たいしょういん]下院に出仕します。翌明治3年に待詔院が廃止されるまで務め、免官の際には「職務勉励」の恩賞として太政官から垂直地[ひたたれち](男性用装束の反物)を賜りました。免官後は米沢に戻り、米沢藩の宣教使や藩学校総掛を務め、藩内の教育に携わりました。

山形師範学校初代校長として近代山形の教育の礎を築き、名筆家としても知られる教育者

 斎藤篤信は、明治3年に米沢に戻って米沢藩の教育に携わっていましたが、廃藩置県を経た明治6年に再び明治政府の教部省に出仕することになります。教部省では東北諸県の巡視などを務めました。明治9年に教部省を依願退職すると、初代山形県令三島通庸[みしまみちつね]は旧知であった篤信を米沢を統括する第十大区区長に任命します。明治12年には山形師範学校(現山形大学地域教育文化学部)初代校長に任命され、明治17年まで務めました。学生の指導方針には「漢学を中心に位置づけ、自身は「修身」の講義を受け持ち、教育者としての自覚と道徳の大切さを説きました。校長退職後は、文部省御用係や学習院教授補を歴任しました。
 米沢では「とくしん先生」と愛着をもって親しまれていたといいます。明治24年に67歳で亡くなると、斎藤家の菩提寺である城南の常安寺境内には門人たちによって篤信の頌徳碑[しょうとくひ]が建立されました。また、「馬陵[ばりょう]」の号を持つ名筆家として知られ、松が岬公園の「招魂碑」の文字の揮毫[きごう]なども手掛けています。

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