中條 政恒

更新日:2024年03月29日

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中條 政恒(1841 – 1900)

米沢藩家臣の蝦夷地開拓を建議し、維新後は新政府に出仕して安積開拓に取り組んだ行政官

 中條政恒[なかじょうまさつね]は、米沢藩中級家臣(与板組)の上与総兵衛[かみよそべい]の嫡子として天保12年に舘山口町(現城西)に生まれました。もとは上姓でしたが、明治5年に先祖の姓であった中條に復し、以後は中條姓を名乗るようになります。
 政恒は幼少期から俊秀[しゅんしゅう]として知られ、藩校興譲館で学んでいた12歳の時に選ばれて米沢藩世子龍千代[せいしたつちよ](のちの上杉茂憲[もちのり])の学友となっています。慶応元年、藩命により江戸で古賀謹堂[きんどう]や林家に入門して平田東助らと勉学に励みました。また、米沢藩家臣の生活困窮を目の当たりにした政恒は、過剰に多い家臣を蝦夷地(北海道)に移住させて開拓することを藩当局に建議します。しかし、財政難を理由に建議が取り上げられることはありませんでした。幕末には宮島誠一郎らとともに周旋方[しゅうせんがた]として活動し、戊辰戦争時に米沢藩降伏後の敗戦処理に尽力します。
 明治2年、明治新政府により越後府判事試補に任命されますが、間もなく辞して米沢へと戻り、町奉行(のちに職名変更で刑法司[けいほうつかさ]兼市宰[しさい])などを勤めました。明治4年の廃藩置県後には置賜県に出仕し、置賜県令高崎五六の後押しも得て、全国の華族・士族による北海道開拓についての奏議書[そうぎしょ](意見書)を明治新政府に提出しました。 廃藩置県によって華族・士族の処遇が問題となっていた中で、奏議書は日本の将来を考えた具体性のあるものでしたが、これも時期尚早として採用されませんでした。
 明治5年、政恒は福島県典事[てんじ]として転出し、福島の安積開拓に取り組むことになります。

福島県で「安積開拓の父」として顕彰されている米沢藩出身の行政官

 明治5年、福島県典事となった中條政恒は、県令安場保和[やすばやすかず]とともに士族授産による安積原野(現福島県郡山市)の開拓に着手します。宿願であった開拓を福島県の地で実現するため、開拓予定地に仮小屋を建てて妻子とともに移住しました。開拓を推進する「開成社」を創設し、明治8年秋までに新田76町歩、新畑140町歩の開拓実績を上げ、翌年には人口700人余の入植者の村である桑野村誕生させます。さらに猪苗代湖を開削して疏水[そすい](水路)を通すことを明治政府の大久保利通内務卿に建言して実現させるなど(安積疏水は政恒転任後の明治15年に完成)、開拓事業に精力的に取り組みました。安積開拓事業は成功し、その功績から政恒は「安積開拓の父」と称されています。なお、安積開拓の困難さは、孫で作家の宮本百合子の小説『貧しき人々の群』に詳細に綴られています。 明治14年、政恒は太政官少書記官に転任し、明治19年には島根県大書記官に就任します。島根県では洪水被害への対応や物産振興に尽力しました。明治30年には安積の人々に請われて開拓の中心地であった開成山に一家で移し、明治33年に亡くなるまで過ごしました。

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