大熊 信行
大熊 信行(1893–1977)
歌人・評論家としてもマルチに活躍した米沢出身の経済学者
大熊信行は、元籠町[もとろんちょう](現中央二丁目)で生まれました。米沢興譲館中学校から東京高等商業学校(現一橋大学)に進み、米沢市立商業学校の教員となりますが、東京高等商業学校に再入学し、経済学を研究します。卒業後は小樽高等商業学校・高岡高等商業学校で教鞭を執り、この頃の教え子には、プロレタリア文学の小林多喜二[たきじ]や文化勲章受章者の篠原三代平[しのはらみよへい]などがいます。マルクスの配分理論について考察した著書『マルクスのロビンソン物語』は経済学界で論争を巻き起こしました。
歌人としても郷里米沢で歌誌「まるめら」を主宰、反アララギ派として斎藤茂吉を批判します。その他にも浜田広介[はまだひろすけ]の影響で童話を執筆し、文芸活動・評論活動を積極的に行うなど多才でした。
昭和4年に文部省在外研究員として欧米に留学、同郷の建築家中條[ちゅうじょう]精一郎夫妻やその娘で作家の百合子(宮本百合子)らと交流していました。昭和16年には経済学博士の学位を取得。戦時中は海軍大臣官房嘱託や大日本言論報国会理事などを務めて戦争に加担したため、戦後は公職追放となりました。
公職追放となるも神奈川大学などで教鞭を執り、人間中心の経済学を構想した経済学者
昭和22年、公職追放となった大熊信行は、季刊『理論』に「告白」を執筆、戦時中の言論活動を自己批判し、懺悔しています。追放中も教育思想研究会を創設し、多彩な評論活動を継続しました。昭和27年に公職追放が解除されると、神奈川大学教授となり、以後、富山大学・創価大学でも教鞭を執りました。経済学の研究では『家庭論』や『生命再生産の理論』を著し、人間中心の経済学を構想しました。また、国家の戦争責任についても論じています。
昭和52年、大熊は84歳で亡くなりました。生涯で数十冊もの膨大な著作を遺し、死後も大熊信行研究会が発足してその業績の検討が行われるなど注目され続け、学会にも大きな影響を与えました。
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更新日:2024年03月29日