三島 通庸
三島 通庸(1835-1888)
近代的な道路開発や洋風建築を導入し、「土木県令」と称された初代山形県令
三島通庸[みしまみちつね]は、天保6年(1835)、鹿児島に生まれました。戊辰戦争では、薩摩藩士として東北各地を転戦します。明治7年、内務卿大久保利通により酒田県令に任命、鶴岡県令を経て、明治9年に統一山形県の初代県令となりました。
通庸は、道路開発による産業育成と東北振興を目指して、関山新道・上山新道など県内の道路整備を推し進めますが、中でも有名なのは山形県と福島県をつなぐ栗子隧道[ずいどう](トンネル)の開削を伴った万世大路の整備です。隧道開削は当時世界最先端の削岩機を導入し、近代土木技術の粋[すい]を集めた大工事であり、完成した隧道は当時日本最長を誇りました。また、山形県庁・済生館をはじめ、近代的な洋風建築を次々と建築しました。これらの功績から通庸は「土木県令」と称されています。
山形県の近代化に大きく貢献し、「鬼県令」と呼ばれた官僚・政治家
山形県令三島通庸は、明治14年の明治天皇東北巡幸の際、自ら県内を案内します。天皇が山形県を離れる最後の日には万世大路の開通式を盛大に催しました。また、県庁近くに製糸場・水力機織場などを建設して蚕糸[さんし]業を奨励し、済生館(山形県立病院)にはお雇い外国人医師ローレッツを招聘[しょうへい]して医学教育に力を入れるなど、山形県の近代化に大きく貢献しました。
山形県令から福島県令に転任すると、自由党員が多数を占める県議会と激しく対立し、自由民権運動を弾圧したため(福島事件)、「鬼県令」と呼ばれます。その後、栃木県令・内務省土木局長・警視総監などの要職を歴任し、54歳で亡くなりました。墓地は東京都港区の青山霊園にあります。
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(社会教育担当、文化振興担当、文化財担当)
〒992-0012 山形県米沢市金池三丁目1番14号 置賜総合文化センター1階
電話:0238-22-5111 ファックス:0238-21-6020
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更新日:2024年03月29日