池田 成彬
池田 成彬(1867-1950)
ハーバード大学に留学し、三井財閥の最高指導者となった銀行家
池田成彬[いけだしげあき]は、慶応3年に米沢藩士池田成章[なりあき]の長男として生まれました。慶応義塾で学び、ハーバード大学に留学して経済学を修めます。5年間のアメリカ留学から帰国後、三井銀行に入行し、大阪支店勤務や足利支店長、欧米出張を経て、本店営業部長などの要職を歴任しました。成彬は積極的な反面、その合理的で冷静な判断力により三井銀行の発展に大きく寄与します。
大正8年、成彬は筆頭常務に就任、三井銀行の最高責任者となりました。当時の日本のトップ銀行における事実上ナンバーワンの地位に昇り詰めたと言えるでしょう。さらに昭和8年には三井財閥の最高指導者となり、役員定年制や社会事業のための三井報恩会の設立など財閥の改革(いわゆる「財閥の転向」)を推進しました。
日本銀行総裁・大蔵大臣などを歴任し、日本の政治・経済を動かした経済人
池田成彬は、昭和12年、結城豊太郎[ゆうきとよたろう]大蔵大臣の懇請により日本銀行総裁に就任します。在任期間は、わずか5ヵ月半と歴代で最も短期間でしたが、日銀の産業金融への進出を打ち出すなど確かな足跡を残しました。翌年には第一次近衛文麿[このえふみまろ]内閣の大蔵大臣兼商工大臣として入閣し、第二次世界大戦に向かう時代の中で、国防と財政の調和、軍需生産の確保に努めました。戦時中は内閣参議や枢密顧問官を務め、この間、2度にわたり首相候補にもあげられています。
戦後、三井財閥の解体を主導しますが、その一方でA級戦犯容疑者に指定されています(間もなく解除)。その後は吉田茂[よしだしげる]首相の相談役の役目を果たしながら、昭和25年に83歳で亡くなりました。成彬は米沢が生んだ日本を代表する経済人と言えるでしょう。
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更新日:2024年03月29日