池田 成章
池田 成章(1840-1912)~上杉家家扶や地方行政官として活躍した上杉茂憲の側近~
エピソード1 米沢藩世子上杉茂憲の小姓[こしょう]
池田成章[いけだなりあき]は、天保11年(1840)に米沢藩士香坂新左衛門の3男として本五十騎[ほんごじっき]町(松が岬2丁目)に生まれました。10歳で藩校興譲館に入学すると甘糟継成[あまかすつぐしげ]などに師事し、学業成績は極めて優秀で秀逸生に14回も選ばれています。元治元年(1864)、25歳の時に米沢藩士池田峰蔵の養子となりました。慶応3年(1867)、古藤伝之丞[ことうでんのじょう]とともに世子上杉茂憲の小姓となり、以後茂憲と密接に関わっていきます。この年、長男成彬[しげあき](後の日本銀行総裁)も誕生しました。
慶応4年、戊辰戦争が始まると成章は米沢藩の使節として東北各地を奔走します。米沢藩の降伏後は茂憲に同行し、軍監として庄内討伐参加しました。
エピソード2 上杉家家扶や置賜県で活躍
戊辰戦争後の米沢藩処分により上杉斉憲[なりのり]に隠居が命じられ、茂憲が藩主となります。成章はその御側役[おそばやく]兼御膳番[ごぜんばん]となって茂憲と行動をともにするようになります。明治2年の版籍奉還により茂憲が米沢藩知事に任命されると、成章は上杉家家扶となって上杉家の家政を預かり、家政改革に努めます。明治維新期の財政危機などの難局を乗り切り、斉憲・茂憲の絶大な信頼を得ました。併せて東京定府の公用人(外交官)を務め、その後は置賜県大属の就任をはじめ、出納課長、典事、庶務課長などを歴任し、地方行政官としても活躍しました。この間、上杉家の出資で設立された貸金業を営む元商社長も務めています。
明治14年、茂憲が沖縄県令に任命されると、成章は沖縄県御用掛[ごようがかり]として沖縄に同行します。沖縄では慣れない暑さによる体調不良に悩まされながらも茂憲の施政をよく支えました。茂憲が沖縄県令を免官になると東京に戻り、明治17年に大蔵省御用掛となりますが、明治19年には大蔵省を辞して米沢へと戻りました。
エピソード3 山形県議会議長や両羽銀行初代頭取など要職歴任
明治19年、池田成章は米沢中学校(現米沢興譲館高校)の初代校長となります。その後、米沢市議会議員・議長、山形県議会議員・議長を務め、官立米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の誘致成功など政治家としてその手腕を発揮しました。第百二十五国立銀行取締役を務めるなど銀行家でもあった成章は、明治29年に両羽銀行(現山形銀行)が設立されると初代頭取となります。その傍らで元商合資会社社長など企業の重役を務めました。教育・政治・財界と幅広く活躍し、近代の米沢市・山形県の発展に力を尽くしました。
また、長男の池田成彬[いけだしげあき]と孫宇佐美洵[うさみまこと]は日本銀行総裁を務めており、優れた銀行家・実業家であった成章の影響が窺われます。
エピソード4 鶴鳴館[かくめいかん]の建設と『鷹山公世紀』
東京に在住していた旧藩主上杉茂憲[うえすぎもちのり]の米沢移住が決まり、成章の総指揮で上杉家の新邸宅が建設されます。明治29年に完成した新邸宅は「鶴鳴館」と称される建坪530坪の壮大な建物でした。しかし、鶴鳴館は大正8年の米沢大火により類焼し、大正13年に現在の上杉記念館(旧上杉伯爵邸)が再建されています。
明治35年、成章は上杉鷹山の事蹟をまとめた『鷹山公世紀』を完成させました。師甘糟継成の『鷹山公遺蹟録[ようざんこういせきろく]』と並ぶ名著と評され、上杉鷹山研究の基本文献として現在も多くの歴史研究者に利用されています。また、新井白石の影響を受けて著した自叙伝『過越方[すぎこしかた]の記』には、自身の半生とともに米沢をめぐる時代状況が事細かく記録され、米沢の近代史を物語る重要な歴史資料となっています。
上杉茂憲の側近として活躍し、山形の政財界に大きな足跡を残した成章は、大正元年11月に73歳で亡くなりました。
この記事に関するお問い合わせ先
(社会教育担当、文化振興担当、文化財担当)
〒992-0012 山形県米沢市金池三丁目1番14号 置賜総合文化センター1階
電話:0238-22-5111 ファックス:0238-21-6020
お問い合わせフォーム
更新日:2024年03月29日