上杉 斉憲
上杉 斉憲(1820-1889)~幕末に西洋式の軍制改革に注力し、公武一和を目指した米沢藩主~
エピソード1 幕末の政局と米沢藩の軍制改革
上杉斉憲は、文政3年(1820)に第11代米沢藩主上杉斉定[うえすぎなりさだ]の長男として米沢城に生まれました。天保10年(1839)、父斉定の死去に伴い、20歳で家督を継ぎ、第12代藩主となります。西洋列強が江戸幕府に開国を迫り、幕藩体制の崩壊と明治維新へ向かう激動の時代でした。
このような時代の中で斉憲は、嘉永3年(1850)以降、西洋式の砲術を取り入れ、小銃製造や軍隊操練を開始するなど軍制改革に力を注ぎます。さらに文久2年(1862)には幕府の軍制改革を受け、火縄銃の原則廃止と西洋流の全面採用、下級藩士の西洋銃隊化、上級藩士部隊への大砲装備が決まり、米沢藩の軍団は西洋式軍隊に編成されていきました。また、斉憲は藩政にも尽力し、その施政は「鷹山公以来の善政」と賞され、幕府から何度も褒賞を受けています。
エピソード2 文久3年の上洛と公武一和、戊辰戦争へ
文久3年(1862)、斉憲は米沢藩士を率いて、将軍徳川家茂の上洛にあわせ京都に登りました。京都警衛に務めるとともに、幕府と朝廷が一致協力して国難にあたる公武一和の実現を目指し、諸藩と連携して幕府と朝廷との仲介にあたりました。滞在中、孝明天皇の御前で行われた軍事調練に参加し、30匁火縄銃と西洋式銃隊を披露しています。
元治元年(1864)、斉憲は幕府より要職の政事総裁職の内命を受けます。しかし、幕政に関わることを危惧する家臣の意を汲み、斉憲はこれを辞退しました。その後は大政奉還・王政復古などを経て、幕府は崩壊、明治新政府が誕生しますが、旧幕府方と新政府の対立は深まり、戊辰戦争が勃発、斉憲や米沢藩もその当事者となっていきます。
エピソード3 戊辰戦争の敗戦と戦後処分、東京移住
戊辰戦争が勃発すると米沢藩は奥羽越列藩同盟に与し、藩主上杉斉憲は仙台藩主伊達慶邦[だてよしくに]と同盟の盟主となって新政府軍と戦います。米沢藩は抗戦しますが、越後戦線での敗退を機に降伏しました。
戦後の処分では米沢藩は4万石の召上げとなり、叛逆首謀[はんぎゃくしゅぼう]の家臣として戦死した色部長門(久長)を届出ました。藩主の斉憲は隠居を命じられ、嫡子茂憲[もちのり]が家督を継いで最後の藩主となります。
隠居した斉憲でしたが、明治2年には早くも罪を許され、明治3年に新政府から米沢藩政への参与を命じられました。しかし、明治4年の廃藩置県により米沢藩は廃藩、新政府の命で斉憲は茂憲ら上杉家の家族とともに米沢を離れ、東京へと移住します。以後、斉憲は米沢に在住することはありませんでした。
エピソード4 復権と晩年、上杉曦山[ぎざん]公之碑
明治2年、斉憲は戊辰戦争の責任ではく奪された官位を与えられ、従五位に叙せられます。その後も宮島誠一郎らの尽力により明治13年に従四位となり幕末の官位を回復しました。斉憲の復権もまた米沢の「戊辰雪冤[ぼしんせつえん]」の一環といえます。
明治22年、斉憲は東京本郷邸で亡くなります。亡くなる1ヶ月前に従三位に昇進したばかりで、その死は突然のものでした。葬儀は神葬で営まれ、東京白金の興禅寺に葬られます。斉憲に戒名[かいみょう]はなく、墓石には「従三位上杉齊憲卿之墓」と刻まれています。
斉憲の死から2年後の明治24年、米沢城跡内(現松が岬公園)に旧米沢藩士たちの手によって斉憲を顕彰する「従三位上杉曦山公之碑」が建立されました。曦山とは斉憲の号です。この碑は高さ約4メートル、幅約2メートルの巨大な自然石で裏面には千五百字以上もある漢文が刻まれ、斉憲の事蹟を伝えています。
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更新日:2024年03月29日