色部 久長

更新日:2024年03月29日

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色部 久長(1825-1868)~戊辰戦争の「叛逆首謀」の汚名を一身に背負った米沢藩の総督~

エピソード1 名門色部家の出身、戊辰戦争で戦死

 色部久長[いろべひさなが]は、文政8年(1825)、篤長[あつなが]の嫡子として生まれました。通称である「色部 長門[いろべながと]」としても知られます。色部家の祖先である修理進勝長[しゅりのしんかつなが]は、上杉まつり川中島合戦で上杉方の軍[いくさ]奉行としてお馴染みの武将です。色部家は侍組に属し、代々奉行職(国家老)や江戸家老などの要職を務めた名門でした。
 久長は藩校興譲館で学び、家督を継ぐと、江戸家老、奉行職を務めます。慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、奥羽越列藩同盟に与[くみ]した米沢藩の総督(総司令官)として越後へと出陣し、新潟で新政府軍と対峙しました。新潟では民政に力を注ぎ、新潟港や市井[しせい]における治安の安定に貢献、新潟の民衆から深く感謝されたといわれます。しかし、新政府軍が大挙して新潟を攻撃すると、久長は奮戦しますが、最後は壮絶な戦死を遂げました。44歳という若さでした。

エピソード2 叛逆首謀の責任と後世の顕彰

 戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わり、明治新政府は列藩同盟に与した東北諸藩に「叛逆首謀」の責任者を届け出るよう命じました。米沢藩では議論の末、戦死した久長を責任者として届け出ます。色部家は家名断絶となり、千坂高雅[ちさかたかまさ]や甘糟継成[あまかすつぐしげ]など重臣たちの処分は免れました。久長1人が米沢藩の戦争責任を一身に背負い、死してなお米沢藩に尽くしたと評される所以です。
 その後、昭和7年に新潟市関屋の戊辰公園(久長の戦死地)内に、昭和34年には米沢市市制施行70年記念事業の一環で旧上杉伯爵邸(上杉記念館)敷地内に、久長を偲ぶ「色部長門追念碑」がそれぞれ建立されました。ともに現在に至るまで碑前祭が営まれており、顕彰活動が続いています。久長への尊敬の念は、新潟と米沢の地に今もなお深く根ざしているのです。

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