甘糟 継成
甘糟 継成(1832-1869)~上杉鷹山研究の先駆者であり、戊辰戦争で活躍した軍務参謀~
エピソード1 『鷹山公偉蹟録』を著す
甘糟継成[あまかすつぐしげ]は、天保3年(1832)、甘糟藤右衛門の長男として生まれました。甘糟家は武勇で名を馳せた甘糟備後守景継[びんごのかみかげつぐ]を祖とする家柄で、上級家臣である侍組に属していました。継成は17歳で家督を継ぎ、藩校興譲館では典籍(館内書籍の管理などを担う役)を務めました。
継成の業績で特筆すべきは、米沢藩第9代藩主上杉治憲(鷹山)の事蹟をまとめた『鷹山公偉蹟録』の編纂執筆です。安政元年(1854)に筆を起こして以来、約9年間もの歳月をかけて稿本全21巻を完成させました。明治11年に明治天皇天覧の栄誉を得た名著であり、鷹山の研究をする上では現在でも欠くことのできない基本文献です。慶応元年(1865)、継成は記録所頭取を申し付けられ、藩の秘書や古文書の管理をする立場となります。米沢藩に関する歴史書の編纂などを行い、「本藩新史」をはじめとする数多くの著作を残しました。これらの著作からは、継成の優れた歴史家としての一面を垣間見ることができます。
エピソード2 戊辰戦争と晩年
慶応4年に始まった戊辰戦争では、軍務参謀として千坂高雅[ちさかたかまさ]、色部久長[いろべひさなが](長門[ながと])らとともに越後戦線に出陣し、新政府軍を大いに苦しめました。新潟陥落を受けて米沢藩は越後から全軍撤退して降伏しますが、この決断は継成の進言によるものとも言われます。なお、戊辰戦争の記録として「北越日記」を残しました。
明治になると上京し、福沢諭吉や大久保利通、勝海舟らと交流を深め、明治2年に明治新政府の待詔院[たいしょういん]へと出仕しますが、間もなく病気で亡くなりました。38歳という若さでした。
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更新日:2024年03月29日