我妻 榮

更新日:2024年03月29日

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我妻 榮(1897-1973)~岸信介の好敵手・親友で、民法学を確立した東京大学名誉教授~

エピソード1 四秀才といわれた伝説的学生、岸信介の好敵手

 我妻榮は、明治30年、米沢市鉄砲屋町(現中央三丁目)に教員であった両親のもとに生まれました。興譲小学校では4年生から6年生まで赤井運次郎に学びます。この恩師運次郎との出会いは榮の人生の大きな転機となり、生涯にわたって師弟の交流は続きました。
 榮は米沢中学卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法科大学へと進みます。米沢中学では「四秀才」の一人に数えられ、成績は歴代トップ、一高でも常に首席という伝説的な学生でした。また、一高・東大時代を通じて、のちに首相となる岸信介は首席を争った好敵手であるとともに、米沢で一緒に釣りや温泉を楽しむなど親友の間柄でもありました。

エピソード2 東大教授となり、民法学の基礎を確立

 榮は、東大在学中に高等文官試験に合格しますが、鳩山秀夫教授に嘱望されて大学に残り、民法学を研究することになります。大正12年から3年間、ドイツ・フランスなど5か国に留学し、昭和2年に東京帝国大学教授となりました。
 明治から大正にかけて一応の形成をみた民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、数多くの著書を発表し、代表作である『民法講義』は今日の民法学の基礎となっています。伝統的な法律学に社会学的方法を取り入れ、我妻民法体系として結実させました。また、戦後、旧民法の「家制度」の廃止と家族法の民主化等の民法改正では指導的な役割を果たしています。
 昭和20年に法学部長に就任し、同32年に定年退官、東京大学名誉教授となりました。

エピソード3 岸信介君に与える

 昭和35年、榮は岸信介首相に対し、日米新安保条約への批准をめぐって朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という手記を発表しました。
 「君は、定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前、君は、ドイツと組んで、中国や英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それは、とんでもない誤りだったのです。(中略)君はまた同じ誤りをくり返そうとしているように、私には思われて、りつ然とします。今日、君に残された道は、ただ一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです。」
 かつての親友への痛烈な批判であり、時の首相に対しても自らの信念に基づいてはっきりと主張する榮の勢は、学者のあるべき姿として現在も語り継がれています。

エピソード4 文化勲章を受章、郷土米沢への思い

 昭和39年、榮は民法界の発展に寄与した功績により文化勲章を受章、市は名誉市民に推挙しました。
 また、榮は、米沢の後進の育成にも力を注ぎ、市内の学校で自らの経験に基づく講演をたびたび行い、多くの生徒たちに影響を与えました。母校の米沢興譲館高校に多額の私財を寄付して「自頼奨学財団」を設立、本を寄贈して「自頼文庫」を作り、興譲小学校にはピアノや児童向けの本を寄贈する(まがき文庫)など、榮の郷土米沢への思いは生涯消えることなく、米沢のために力を尽くしました。
 なお、榮の生家は現在、我妻榮記念館として保存され、その功績を今に伝えています。

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