伊東 忠太
伊東 忠太(1867-1954)
エピソード1 家系は代々続く藩医
伊東忠太は、慶応3年(1867)、米沢藩医・伊東祐順[すけのり](平田東助の実兄)の次男として、米沢城下の座頭町(今の中央6丁目)に生まれました。伊東家は代々藩医の家系であり、祖父の昇迪[しょうてき]は長崎でシーボルトに学んだ蘭学医、兄の祐彦[すけひこ]は九州帝国大学医科大学の初代学長を務めています。
明治6年、軍医となった父に従い、忠太ら家族も上京し、米沢を離れます。
エピソード2 法隆寺研究から世界へ世界遺産の発見も!
忠太は第一高等中学校などを経て帝国大学工科大学、同大学院に進学、家業の医学ではなく造家[ぞうか]を学びました。大学では辰野金吾・コンドルから西洋式の造家を学ぶ一方で、日本の古代建築にも目を向け、明治31年に「法隆寺建築論」を発表して法隆寺が日本最古の木造建築であることを学術的に示しました。この業績により第1号の工学博士の学位を受けました。
また、法隆寺の起源を古代ギリシャに求め、3年以上の月日をかけて中国・インド・オスマン帝国などで調査を行い、中国では雲崗石窟[うんこうせっくつ](現在は世界遺産)を発見します。
エピソード3 「建築」という言葉を広め、日本建築学を確立
明治27年、忠太は「アーキテクチュール」の訳語として、技術的な意味合いの濃い「造家」から、より総合芸術的な意味を含む「建築」へと改めるべきだと提唱しました。この提言を受けて明治30年に造家学会は建築学会と改称、翌年には東京帝国大学の造家学科が建築学科と改められました。さらに忠太は日本建築史・東洋建築史の体系を樹立、こうした功績から日本建築学を確立したと評されます。教育面でも明治38年に東京帝国大学教授となり、退官後は早稲田大学・東京工業大学でも教鞭を執り、多くの建築家を育てました。
エピソード4 忠太の建築と動物・妖怪のルーツ
忠太の設計した建物は平安神宮、明治神宮、湯島聖堂をはじめとして著名なものが多く、県内では明善寺(山形市)や亀岡文殊堂(高畠町)、市内には上杉神社があります。こうした神社仏閣に加えて、個人の邸宅、墓、記念碑に至るまで幅広く建築設計を手掛けました。
忠太の建築には、中国・インドの影響を受けた不可思議な動物・妖怪で外観を飾るという大きな特色があります。とりわけ築地本願寺や大倉集古館[おおくらしゅうこかん]、一橋大学兼松講堂[かねまつこうどう]は有名で、忠太の好んだ動物・妖怪がいたるところに散りばめられています。忠太の妖怪好きは、幼い頃に母はなから聞かされたおとぎ話の影響が大きかったといわれています。
また、絵を描くのが好きだった忠太は、「潜龍[せんりゅう]」の号を持ち、野帳やノート、葉書などにも優れた作品を残しました。葉書に描いた風刺漫画[ふうしまんが]を収録した『阿修羅帖[あしゅらじょう]』には、多彩な才能の一端を垣間見ることができます。
エピソード5 有為会[ゆういかい]の結成と名誉市民第1号
明治22年、米沢出身者の「相互の親睦と切磋琢磨」を図るため、忠太の発案により有為会が結成されました。
有為会は郷土関係者の賛同を得て、翌23年末までに429人の会員を集めました。その後、米沢有為会と改称し、寄宿舎「興譲館」を開設して奨学育英事業を行うなど郷土の有為な人材の育成に大きな役割を果たし続け、公益社団法人米沢有為会として現在に至っています。
昭和18年、忠太は建築界における卓越した功績から文化勲章を受章しました。建築界では初めての栄誉であり、山形県出身者としても初の受章でした。
昭和29年、市は米沢市名誉市民条例を定め、第1号として忠太に名誉市民の称号を贈り、その栄誉を讃えています。
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更新日:2024年10月31日