千坂 高雅
千坂 高雅(1841-1912)~幕末の米沢藩を主導し、戊辰戦争を戦った名家出身の若き家老~
エピソード1 名門千坂家に生まれた若き家老
千坂高雅[ちさかたかまさ](太郎左衛門)は、天保12年(1841)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれました。高雅の生まれた千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門でした。
高雅は若い頃から千坂家の嫡子として父高明とともに藩政に参画し、軍制改革の建議(一藩皆兵・一家一兵・一兵一銃など)をしています。また、藩校興譲館では学頭となって講義内容を朱子学から七書(『孫子』など兵書の総称)へと一変させる改革を行いました。
高雅は元治元年(1864)、家督を継ぐと、慶応3年(1867)には異例の抜擢で国家老に任じられます。27歳という若さでした。
エピソード2 戊辰戦争に従軍、活躍するも降伏し隠居
慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、奥羽越列藩同盟が結成され、米沢藩は新政府軍と戦います。高雅は軍務総督を命じられ、列藩同盟の軍議では雲井龍雄の「討薩檄[とうさつげき]」を示して同盟の結束を図り、越後戦線で参謀の甘糟継成[あまかすつぐしげ]らと活躍しました。しかし新潟陥落を受け、戦線からの全軍撤退を決断し、新政府軍に降伏しました。
戊辰戦争の終結後、新政府から列藩同盟に参加した諸藩に、「叛逆首謀[はんぎゃくしゅぼう]」の家臣を申し出るよう命じられました。米沢藩では謹慎中の高雅の名も挙げられますが、戦死した色部久長[いろべひさなが]を首謀者として届け出ます。これにより色部家は家名断絶になった一方で、高雅には罪科が及ぶことはありませんでしたが、名を「嘉遯斎[かとんさい]」と称して隠居し、一切の要職から身を引きました。
エピソード3 英国留学と明治新政府への出仕
戊辰戦争後、一切の職を辞した千坂高雅でしたが、間もなく有為の人材として米沢藩の要職である大参事への就任を要請されます。高雅は何度も固辞しますが、宮島誠一郎などからの懇請により明治3年に就任しました。
明治4年、高雅は米沢藩知事を免官となった上杉茂憲に従って上京し、翌年には茂憲に随行して英国に留学します。明治7年に帰国後は、内務省に出仕し、内務卿大久保利通のもとで猪苗代湖の疎水工事に参画するなど新政府の大事業にも携わりました。また、明治10年に勃発した西南戦争では新政府軍の陸軍中佐として、米沢の士族300人以上を率いて九州に出陣し、反政府士族と戦っています。
エピソード4 石川県令・岡山県令、実業家として活躍
明治12年、高雅は石川県令に任命されます。石川県令として、人情風俗や地域利害の異なることを理由に、明治13年に福井県、明治15年に富山県の新設を建議し実現させました。
明治17年からは岡山県令(後に岡山県知事)となります。児島湾開墾事業での県政の混乱もありましたが、明治25・26年の水害時には先頭に立って復興に尽力するなど、明治27年まで岡山県政に力を注ぎました。
岡山県知事退官後は、勅選の貴族院議員となり、その傍らで実業家としても活躍しています。両羽銀行、宇治川水電、横浜鉄道、横浜倉庫などの企業で取締役などの重役を務めました。米沢藩家老、英国留学、明治政府の官僚として培った非凡な才能と経験は、実業家としても存分に発揮されたといえます。
大正元年、高雅は72年の生涯を閉じました。
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更新日:2024年03月29日