米沢牛ってどんな牛?

更新日:2024年03月29日

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農耕用の役牛

 置賜地方(山形県南部の三市五町)での牛の飼育は、天和元年(1681年)に米沢藩主が、置賜地域に南部地方(現在の岩手県)から牛を導入し、農耕、運搬、採肥を目的として飼育を奨励したのが始まりといわれています。
 つまり、置賜地域は明治以前から牛の飼育技術を持っていたものと考えられます。
 実際に牛肉を食べたというのは、「明治元年10月30日長手村(現在の上郷地区)の庄助という人が、牛2頭を官軍に献上して、医師や負傷兵に調理して出した。」という記載が米沢市史にあります。
 また、藩政末期から明治の初期にかけては、牛のセリ市が公開で行われおり、特に飯豊町旧豊川村の「手の子のセリ市」は有名で屋台が建ち並びお祭りのようににぎやかであったと伝えられています。このように官軍に献上出来るほどのもので、市場が開かれていたということから、明治以前から地元の人は牛肉を食べていたと考えられます。

牛肉の大消費地横浜で名声を博す

 明治8年米沢県学校(現在の米沢興譲館高等学校)に赴任していたイギリス人洋学教師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏が任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として牛を持ち帰ったといわれております。
 その肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれています。
 明治中頃には、西置賜郡添川村(現在の飯豊町添川)佐藤吉之助という人が、横浜の問屋と特約し販売したところ好評を博し「米沢牛」が広く世間に知られるようになりました。
 さらに、明治32年の奥羽本線の開通を機に、山形県南部の牛が米沢駅から貨車積みされ、牛肉店発祥の地横浜に大量に出荷されました。このことが「米沢牛」の銘柄を確実なものにしました。

家畜商が黒毛和種を積極的に導入 地域に於ける肥育方式の発展を図る

 米沢牛の歴史の中で、家畜商の果たした役割は大変大きなものがあります。
 当時の家畜商は、農耕用の若牛、若馬を近隣の市場から買い求め、農家に預け、老廃牛(馬)を市場で売っていました。
 南部牛(日本短角種)を役牛として導入したのも家畜商といわれています。
 また、黒毛和種の松阪牛の名声が高まると、鳥取、島根、兵庫などから黒毛和種を積極的に導入し、時代とともに従来の役牛利用を考えた長期肥育から、肉を取ることを中心にした理想飼育へと発展させ、銘柄牛の肥育方式を確立しました。これは、家畜商の大きな功績といえます。

地域の文化が産業形成に大きな影響を与えた

 最近、前沢牛、飛弾牛、三田牛、仙台牛などの銘柄牛産地が急成長を遂げています。
 これらの産地は、食生活の西洋化等の中で、大消費地へ大量に良質のものを送ることを念頭に置いて産地が形成されてきました。
 これらに対し米沢牛は、生産、流通、出荷、消費がすべて地域内で行われている全国でも希な銘柄牛です。
 それだけに置賜地域の畜産業をはじめ、食肉流通業界、米沢牛を取り扱う飲食店、温泉宿泊施設等など、食文化が、産業形成に大きな影響を与えてきたといえます。

他産業との相乗効果

 現在の米沢牛の銘柄は、その食味の良さもさることながら、自然や歴史などの観光や他産業との相乗効果により名声を高めています。
 温泉や上杉の城下町としての米沢の観光、山形県一の工業出荷額や山形新幹線など数多くの「追い風」が続き、確実に全国へと広がっています。
 また、これらの変化を敏感にとらえた地元の肉屋さんの巧みな販売戦略、宣伝も大きな役割を果たしています。
 一方、昭和63年からは、米沢牛の評価を大消費地で得たいと、生産者数十名が集まり、自主的に東京食肉市場への枝肉の出荷を開始しました。
 現在は、質、品揃えの良さや、様々な宣伝活動が認められ、高い評価を得ています。
 一部の知られざる銘柄から全国的な銘柄へ向けて大きな一歩といえるでしょう。

資源の循環

 昔からの牛の飼育は、稲作経営を主体とした複合経営であり、牛を水田や畑の農作業の役牛として使い、その肥やしを土に還元し、そこから肥育に欠くことの出来ない稲わらや穀物、野菜などをとり、飼料として与えていました。
 時代が変わった現在でも同様に稲作を主体とした複合経営の中で飼育され、自分の水田から収穫した良質の稲わらに麦や大豆、ふすま等を加えて与えることにより最高の和牛として生産されています。
 つまり、米沢牛の生産は地域内の資源の循環の中で行われているのです。(ふすま=小麦の皮)

子牛を育て出荷するまでの33ヶ月間、餌の与え方に農家の経験が生きる

 米沢牛の飼育農家は、子牛を生産する繁殖農家と、牛を大きく育て肉牛として出荷する肥育農家に大別されます。
 繁殖農家は、母牛となる血統の良い雌牛を、おおよそ15ヶ月間飼育し最初の種付けをします。発情の兆候(発情は21日周期)を見逃すと次回まで待たなければなりません。
 現在は、牛の成長や、肉の歩留まり(体重にしめる枝肉の割合)、脂肪の着き具合など遺伝的な要素が大きく影響するため、優秀な種雄牛の凍結精液を使用して、人工授精で子牛を受胎させています。
 受胎して約9ヶ月間(294日)で分娩します。その後子牛を約9ヶ月間飼育して子牛市場に出荷します。
 一方、肥育農家は、子牛市場からめすの子牛を買い、生後33ヶ月齢になるまで肥育して枝肉市場に出荷します。
 肥育時の給餌は、稲わら等の粗飼料と麦、ふすま、大豆粕、トウモロコシ、米ぬか等の濃厚飼料を与える割合と量を肥育の時期や牛の成長具合や体調により変えて与えていきます。濃厚飼料だけを多く与えればいいというものではないので、肥育農家の長年の経験がものをいいます。
 現在では、米沢牛出荷組合の農家では、購入する濃厚飼料は、非遺伝子組換え(NON-GM)+ポストハーベストフリーのものを積極的に与えています。

我が子のごとく育てる

 牛は、寒ければ熱を出し風邪を引きます、腹をこわして下痢をすることもあります、子牛の頃には五種混合の予防注射もします、飼育環境に左右され、性格や行動も飼っている家族に似てきます。

耳の部分に黄色の個体識別番号が付けられた米沢牛の写真

この記事に関するお問い合わせ先

産業部農業振興課(市役所2階6番窓口)
(米沢牛振興室、農業振興担当、農産担当、畜産担当、青果物地方卸売市場)
〒992-8501 山形県米沢市金池五丁目2番25号
電話:0238-22-5111 ファックス:0238-22-0498
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