【市民憲章制定のあらまし】

地域医療

昭和36年に欧米諸国を視察して来た今は故人の時の市長吉池慶太郎氏は、道路と公徳心の問題を除いては、日本は素晴らしい国であり、郷土米沢もまた住みよいまちであることを再認識しました。

しかし、戦後はとくに日本人の公徳心が低下したといわれ、たしかに欧米諸国の域には程遠いものであることを感じるとともに、美しい生活環境を創りあげるために、自らの責任と義務を果たし、永年の労力の積み重ねによってつくられた生活の規範というものを極めて忠実に守りながら、常に反省の上にたち、社会共同の責任をもってその生活態度を規正しようと努めている欧米諸国の国民の姿にふれ敬服したのです。

そのころ米沢市は、昭和38年米沢市総合建設振興計画をたて第1次5ケ年、第2次3ケ年、第3次10ケ年計画と夫々米沢市の総合的な実態調査に基づき、米沢市の振興に就いて着々とその実現につとめつつありましたが、一方、市政の発展住みよいまちづくりは、たんに行政的な活動によってのみ進められるのではなく、もり上がる市民の積極的な活動に持つべきであるとの考え方が市民の間からまき起ってきました。

即ち、市民全てのものが、その進むべき目標を明かにして、市民生活をよりよいものにしていく約束のようなものを定めたらどうだと言う事になり、米沢市の伝統と市民意識に基づき、市民の誇りと責任によって教育文化、産業、福祉、観光など各分野において清潔にして公徳心の高い道しるべをつくるようにしたいという気運が高まってきておりました。

もちろん、これは天下り的なものであってはなりませんし、市民が郷土を愛し、生き生きと発展させてゆこうという純粋な気持ちから、誰にでも守れるような心得をみんなで作って認め合うものでなければなりません。

そこで市長は、広報委員会に対して市民憲章制定についての意見を求めました。昭和37年2月広報委員会では、市民全体の意向を反映させるために各界代表による制定委員会(仮称)を設けて検討するべきであるとの答申を行いました。そこで同年2月25日早速市民憲章制定委員23名を委嘱し市民憲章をつくるべきかどうか。つくるとすればどういう性格のものをどんな方法で、どんな形式内容のものが良いかなどについて意見を求めた結果、市民憲章をつくる事で意見の一致をみました。そして憲章の性格を公共の福祉と住みよい街づくりの2つの目標を掲げ、昭和37年5月31日を締切り日とし原案を市民より公募しました。

昭和37年7月応募文案1,027のものを分類し、次の5項目になる事を認めました。
(イ)産業、経済の向上発展に関するもの 161
(ロ)教育文化に関するもの 220
(ハ)社会道徳に関するもの 226
(ニ)公衆衛生に関するもの 76
(ホ)その他明るいまちづくり、住みよいまちづくり 304
でありました。

この中で最も要望の多かった教育文化、産業福祉、観光のまちづくりと、公衆道徳の昴揚がこの憲章に織り込まれることになりました。憲章は前文と5つの本文から成り、それぞれに趣旨文がついてます。本文は目標で趣旨はその具体的な実践項目をうたったものです。

以上に基づき慎重に文案を検討して、前文と5項目になる原案を作成し昭和37年9月18日市長に答申しました。

昭和37年10月社会教育委員、制定委員、公民館運営新議会委員の代表、また地区委員会の代表、その他約50名の発起委員会をつくり、市当局側より市長、教育長、各課長、中央公民館長等が出席して議事に入り、委員会の性格を実施団体とし、役員は58団体より600名を評議員とし、理事は発起人その他数名を加え、50名をもって構成することとしました。そして会長に市長、副会長には市連合婦人会長、青年会議所理事長、市教育長とする原案を決めました。

この答申を受け市長は議案として9月定例議会に提出しました。付託された総務委員会では、よりよい憲章をつくるために慎重に審議しようという事になり継続審議となりました。総務委員会では、制定委員との話し合いを行うなどして検討した結果、修正の必要がないという結論に達し、昭和37年10月26日臨時市議会で満場一致可決決定されました。

昭和38年11月3日に各界代表者数百名出席のもとに公会堂で市民憲章発表会を開催。市民代表8名の誓いの言葉があり、推進委員会の規約並びに役員の承認があり、ここで米沢市市民憲章制定及推進体制の確立をみました。

(昭和61年3月発刊 市民憲章手引書より)

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