城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
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聖堂(先聖殿)と鷹山筆の扁額 西大通1丁目

孔子を祀った米沢藩の学問の流れを表す建物

元禄10年の聖堂創設
今月は西大通1丁目の法泉寺庭園内にある聖堂を紹介します。
 聖堂とは儒教の祖である孔子を祭った祠堂で、江戸時代には各地の藩校で儒学が学ばれ聖堂が建てられました。この法泉寺の聖堂は藩校興譲館にあった聖堂を縮小移建したもので、米沢藩の学問の流れを表す貴重な建物です。
 米沢藩の聖堂の始まりは、興譲館創設の前にさかのぼります。元禄10年(1697)、第4代藩主上杉綱憲が、儒医矢尾板三印が個人的に孔子像を祭っていたのを知り、御細工町の矢尾板宅に藩費で聖堂を建て学問所としました。聖堂には藩士金沢彦六に彫らせた孔子像を納め、綱憲自筆の「感麟殿(かんりんでん)」の扁額を掲げました。元禄4年に将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を建てた影響がうかがえます。現在、孔子像は法泉寺に「感麟殿」の扁額は県立米沢興譲館高校で大切に保存されています。
興譲館の創設と鷹山筆の先聖殿の額
 藩校興譲館の創設は安永5年(1776)のことです。御細工町(現中央2丁目撚糸組合事務所)に建てられた興譲館の正面には聖堂が置かれ、先に作られた孔子像を奉りました。藩主治憲(鷹山)が興譲館の設立を「学館再興」としたのは、「新たに取り立つるより廃れるたるを興すは人情いつも平なるも」とし、元禄10年の聖堂・学問所を継承した意味合いによります。また、鷹山は片山提学(興譲館の学長)の懇願をうけ、天明5年(1785)に自筆の「先聖殿」の扁額を聖堂に納めました。この額も法泉寺が保存し、鷹山の誠意をこめた気品ある筆跡がみられます。
たび重なる移転と縮小
 その後聖堂は、元治元年(1864)の小森沢火事に類焼し(孔子像・扁額や興譲館の書物などは運び出されて助かった)、門東町武芸所地内(現まちの広場)に興譲館が再建され聖堂も新築されました。また、明治21年には、北堀端にあった米沢中学校の校内に移転されましたが、この際、旧材を用い4分の1に縮小して改築されました。
 さらに、明治44年には御守町に設立された財団法人米沢図書館の構内に移され、図書館によって孔子を奉る「釈奠(せきてん)」の儀式がおこなわれましたが、昭和13年に関東町の米沢興譲館中学に移転。そして、同19年ころに法泉寺庭園内に移され現在に至っています。

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