城下町ふらり歴史探訪

 「城下町ふらり歴史探訪」は、米沢に残る史跡などをわかりやく解説しています。
 これまで「広報よねざわ誌面」で紹介してきた記事を再編集して掲載しています。

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雲井龍雄の墓 城南5丁目

憂国の志士雲井龍雄


常安寺の龍雄の墓

龍雄、小塚原に処刑される
 戊辰戦争後、龍雄はその才能を買われ衆議院寄宿生に選ばれ、明治2年9月に上京、多くの意見書を提出しました。しかし、薩摩・長州中心の明治政府には取り入れられず、逆に迫害を受け退去となりました。
 血気盛んな龍雄は、自分の信念・理想を貫き、新政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織、政府に対抗します。この決起行動により内乱罪で逮捕され、米沢に蟄居(ちっきょ)後、江戸の牢獄に送られました。
 厳しい取調べを受け、明治3年12月26日に判決。梟首(きょうしゅ=さらし首)という重い刑が言い渡され、ただちに小伝馬町牢獄で斬首、小塚原に晒されました。龍雄27歳。辞世の詩は
 「死して死を畏れず、生きて生を偸(ぬす)まず、……」です。
東京の墓
 龍雄の首は刑場隣の回向院(えこういん=東京都荒川区)に葬られました(遺体は医学のため解剖)。その後、米沢出身の山下千代雄(後に衆議院議員となる)がその墓から頭骨を掘り出し、明治16年に谷中の天王寺に改葬し、立派な墓が建てられました。
常安寺の龍雄の墓
 一方、米沢でも龍雄の親族が遺髪を持ち帰り、小島家の菩提寺である常安寺に墓を建てました。龍雄の戒名「義雄院傑心常英居士」が刻まれています。  また、昭和5年、龍雄の60年忌に際し、米沢の有志(雲井会)は遺骨を米沢に戻すことに力を注ぎ、谷中に埋葬した遺骨(頭骨)を常安寺に改葬して、新たに墓を建てました。墓前では、現在も命日にあわせ雲井祭が催され、その遺徳を偲んでいます。
明治期の青年に愛誦された龍雄の詩
 このように龍雄は反逆者として処刑されましたが、雲井龍雄の名は、その後詩人として広く知れ渡りました。龍雄の遺した漢詩は「壮志と悲調とロマンチシズムに溢れ・・・」と評され、明治期の青年達が盛んに愛誦し、彼らの士気を高めました。そして詩吟では、今なお龍雄の詩がよく吟じられています。
 米沢市は、大臣・知事などの官僚や、学者、軍人を多く輩出しましたが、信念を貫き反骨に生きた雲井龍雄という、優れた詩人も生まれているのです。

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