今月は、明治13年に米沢市東方の栗子山(1,217メートル)の中腹を堀り抜いた旧栗子隧道(トンネル)を訪ねてみました。
わが国では初めてといっていい大規模な道路用のトンネル工事であり、当時の最先端技術を用いたもので、日本の土木史上からみても重要な史跡といえます。
この大工事を推進したのが、初代山形県令(県知事)となった三島通庸でした。
三島は、明治9年8月山形県令に任命されると、山形県の産業を盛んにするためには、山に囲まれた四方の道路開削が必要であると考え、県内各地で新道開削を盛んに進めました。また、地元住民の反対を押し切り強引に行った工事も多く、そのため「土木県令」あるいは「鬼県令」とも呼ばれました。
その中で三島が最も力を注いだのが、山形から米沢を経て東京を結ぶ、馬車が通れる路線の開発で、三島は腹心の高木秀明県土木課長を現地に派遣し、苅安と栗子山の下にトンネルを掘って福島と結ぶ苅安新道を調査・計画させ、工事に着手しました。
トンネル工事は、同9年12月より、山形・福島県両側から掘り始められました。固い岩に苦労しましたが、当時世界にまだ三台しかなかったアメリカ製の掘削機械を買って工事を進め、同13年10月19日にようやく貫通しました。山形県側からは約470メートル、福島県側から約400メートルの地点で、少しのずれも無く、見事に結ばれたのです。
翌明治14年にはすべての工事が完成し、10月3日に東北地方を行幸中の明治天皇を迎え、盛大な開通式が催されました。その後、明治天皇から新道に対し「万世大路(ばんせいたいろ)」の名が贈られました。
万世大路(山形県側)の総工費は、地元の負担金が約95,000円、国の負担金が約32,000円、寄付金2,000円で、このほか地元民の勤労奉仕15,000人を要しています。
こうした地元住民の負担の多さから、米沢でも三島県政に対する非難が起こりましたが、完成した栗子隧道、万世大路は、その後昭和初期に改良工事が行われ、昭和36年から41年の工事で「栗子ハイウエー」が完成し、米沢市はもとより山形県の基幹道路として重要な役割をはたし、現在に至っています。